2015年12月28日月曜日

関係精神分析の新たな流れ(また推敲)(2)

RPに対する批判は、ほとんどは「外部」から来ている(Eagle, 2003; Eagle, Wolitzky, & Wakefield, 2001; Frank, 1998a, 1998b; Josephs, 2001; Lothane, 2003; Masling, 2003; Silverman, 2000など)。つまりRP以外の学派からの批判である。しかし例外として初期の段階での批判がまさに「身内」から生じていたことは特筆に価する。RPの火付け役となった「精神分析理論の展開」の共著者の一人であるGreenbergは、1993年にその著書「Oedipus and Beyond エディプスとそれを超えて」(Harvard University Press,1993)で、関係論が欲動の問題を十分に否定されてはいないと主張した。そして「果たして『欲動なき精神分析drive-free psychoanalysis』は可能なのか?」という根源的な問題を提起している。これは欲動と関係性という、ある意味では明確に分けることの出来ない問題についてRPが対立構造を持ち込んだ以上、必然的に起きてくる議論であり、このGreenbergの著書はそれに先手を打ったと見ることもできるかもしれない。
しかし欧州の精神分析においては、「関係論的旋回」が分析理論における著しい退行を意味するという激越な批判もある。(Carmeli,Z, Blass, RB (2010) The relational turn in psychoanalysis: revolution or regression? European Journal of Psychotherapy & Counselling, 12:217-224)それによれば関係論的な旋回は伝統への挑戦であり、これまでの精神分析における技法や慣習を蔑ろにするものであり、分析家の持つ権威を奪うとともに、むしろある種のパターナリズムに陥っているというという。英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、RPに対してこのようなほとんどアレルギーに近い反応を示すのもわからないではない。
しかしより微妙な文脈で行われる批判にはそれだけ注意が必要と思われる。ここではRPに対して詳細な批判を行っているMills の論文を手引きにして論じたい。(Mills, J (2005). A Critique of Relational Psychoanalysis. Psychoanalytic Psychology, 22(2), 155-188. 2006
Mills RPに対する批判の中で筆者が妥当と思われる点を挙げたい。それはいわゆる「間主観性」の概念に向けられたものだが、それは「精神の構造は他者との関係に由来する」(RPのホームページによる)とするRPの方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。間主観性の概念は特にJessica BenjaminRobert Stolorow の二人による精力的な著作により精神分析に導入されたが、その中でもStolorow らの概念は存在論的な議論といえる。「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24, italics added) というのが彼らの主張であり、間主観性は一種の場、ないしは第三主体(Ogden)としてとらえられる。

Millsはこの間主観性の概念の問題は、それが個を埋没させる傾向にあるという。この間主観性理論について、例えばOgden (1994)の主張が引き合いに出される。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは非分析者、そしてもう一つは第三主体であるThe analytic process reflects the interplay of three subjectivities: that of the analyst, of the analysand, and of the analytic third (p. 483)Mills はこれについて、「そもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency の存在はどうなるのだろうか」と問うのだ。ここで少し難解だが随伴現象epiphenomenon という概念が導入される。随伴現象epiphenomenonとはWilliam Jamesにより提唱された概念で、心は脳という物質に随伴するものあり、物質にたいしては何の因果的作用ももたらさないという説である。間主観性も結局は随伴現象であり、それに対してなぜそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?というのがMillsの批判の骨子である。これが本質的な問題提起ともいえる。Giovacchiniは、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」、といういい方すらしている。

Giovacchini, P. (1999). Impact of Narcissism: The Errant Therapist on a Chaotic Quest. Northvale, NJ: Jason Aronson.
ちなみにここで筆者の考えを差し挟めば、このRPへの批判は、「無意識が人間を支配する」というFreudの考えに対する異議に通じるという印象を受ける。無意識の重要性を前提とする精神分析を外側から批判する人々の多くは、人間の持つ主体性が無意識という装置やリビドーの影に埋没することに不安や疑義を持つであろうし、精神分析の内部にあるRPの立場もそこに発している。ところが今度はRPは、関係性や第三主体 the third にその「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。単なる随伴現象なのに、ということらしい。このRP批判とフロイト批判がパラレルに考えられるという事情は、結局は関係性のマトリックスないしは第三主体もフロイトの無意識も、結局はそれがあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰結されるのであろう。人間は一方では脳や中枢神経ないしは生理学的な基盤に既定され、他方では他者との関係性や社会の中に埋め込まれている。両者はきわめて複雑で予想しがたい動きを示す。これらのいずれのみに焦点を合わせることは人間を総合的に理解することにはつながらない。RPがリビドー論を棄却しえているのかを問うたGreenberg と、上述の間主観性批判は、あたかもその二つの視点からRPを牽制していると考えられるのではないだろうか。