2015年12月23日水曜日

フロイト私論(13)


スタイリスト」としてのフロイト

フロイトに対する毀誉褒貶は山ほどあるが、ひとつ確かなことは、フロイトは紛れもなく成功者であり、ある事を見事に達成したということだ。それは精神分析という理論および治療法を確立し、学会を立ち上げてそれを国際的なものとし、全世界に支部を広めたことだった。そしてその組織は一世紀経った今日も、依然として存続している。精神分析そのものは医療の場では衰退し、組織そのものにも往年の勢いはないにしても、いまだに健全に機能している。国際精神分析学会の専門誌が年々薄くなり、廃刊の危機にあるという話も聞かない。日本の精神分析学会に限って言えば、黒字の運営が続けられ、会員数は今も増し続け、演題の発表申込数も年々増加の一途をたどっている。
脳科学がこれほど進み、心に関する生物学的な理解が浸透し、他方精神分析以外にも数百を超えるといわれる種類の精神療法が提出されるようになっても、フロイトが読まれなくなることはまず考えられない。それどころかフロイトのドイツ語の原典をもう一度訳しなおし、現在の「標準版Standard Edition」を全面改訂しようという動きがもう何年も前からある。また日本では独自に岩波書店から新たなフロイト全集が出版され、広く引用され、一つのスタンダードとなりつつある。
フロイトの編み出した精神分析という概念が過去の遺物ではなっていず、依然として多くの人により引き継がれているからこそ、フロイトは何度も否定され、糾弾され、スキャンダルの種ともなり続けるのだ。では人格的には傑出していなかったフロイトがどうしてこのような成功を遂げたのだろうか。それはひとことで言えば、フロイトがスタイルの提供者として紛れもない天才を発揮したからである。
実は私がこのフロイトに関する説を唱えたいと思うようになったのには、ひとつのきっかけがあった。あるものを読んでいて、一種の作図線が引けたような気がしたからだ。それにより私なりにフロイトという人物が「結局はこんな人だったんだ」とわかった気になれたと思ったのである。では私にとっての作図線は何だったかといえば、それは先にも述べたポール・ローゼンの「フロイトはいかに仕事をしたか?」(Roazen, 1995)の中にあった「フロイトは偉大なるstylistであった」という文章である。フロイトが優れた文体家literary stylistであったことはマホーニー (Mahony, 1982) その他により指摘されているが、このローゼンの主張にはもう少し一般的なstylistという意味が込められているように私には思えたのである。すなわちフロイトは精神分析というstyleを創造し、提供することに非常に長けていたということである。ここでのstyleとは、構造、形式、様式というニュアンスを持つものと考えてほしい。それはしっかり内実も伴った一つのスタイル(=形)だったのである。もちろんこれは取り立てて目新しい指摘ではないかもしれないが、その意味するところは私には大きかった。
このような視点からフロイトを見ると、非常に多くのことに納得がいく。彼が精神分析に関する論考をあれほど力をこめて書き、同時に組織を作り上げていく仕方は、精神分析の内容と入れ物に同時に(スタイル)を与えていくプロセスだったのだ。
フロイトはきわめて多筆だったが、同時に人生において何回かその手紙や診療録や論文を大量に破棄している。それは彼が人目に触れるように残したものは、すべてそのスタイルを構成する要素であるという認識を持っていたからであろう。それ以外のものは公的には存在してはならなかったのである。(ただし彼の努力のかいなく、沢山のものが「流出」してしまったのは、フロイトにとってはかえすがえすも不幸なことであったが。)
フロイトが精神分析に与えた(スタイル)は、「標準版」にして全24巻にも及ぶ体系であったが、もちろん完成形ではなかった。それはたとえて言うならば、いくつかの枝をすでに出し始めた若木のようなものであった。その幹にあたる部分は、エディプス・コンプレックスやメタサイコロジーという理論的な実質が詰まっていたが、そこから転移、逆転移の概念に見られるような患者治療者間の情緒的な交流という枝を伸ばし、「悲哀とメランコリー」(1917)に見られるような対象関係理論の萌芽もあり、かと思えば「科学的心理学草稿」(1895)や「夢判断」(1900)のいくつかの章に見られるような生物学的な視点という枝もあった。そしてさらには外傷理論に基づく症状理解という枝も決して枯れることなく伸び続けていたのである。
後にフロイトの理論を批判する形で発展した精神分析の分派は、結局はフロイトの理論がすでにその枝をもっていたことを認めざるを得ず、完全な形でのアンチテーゼにはなりえなかった。そしてそれらはいずれも精神分析の体系に含みこまれることになったのだ。

さらにたとえるならば、フロイトが打ち立てた理論は幹細胞のようなものであった。そこに様々な萌芽を含んでいたのである。しかし幹細胞と違って、それは幾多もの器官をすでに持っていた。それは独自の(スタイル)としてそこにすでにあったのだ。これは驚くべきことなのである。