2015年12月24日木曜日

フロイト私論(14)


フロイトは治療者としての能力はどうだったのか?

フロイトは治療者としてどれほどの能力を持っていたのかという問題について考えてみる。これまでに述べたとおり、フロイトがあらゆる点において優れていたと考えることは理屈にかなっていない。精神分析という(スタイル)を創出することに発揮された才能は、治療者としての資質とは別個のものと考えなくてはならないだろう。ただし治療者としての才能をフロイトに期待する根拠はないわけではない。なにしろフロイトの作り出した(スタイル)には治療技法も含まれるのであり、その著作には当然ながら治療者の取るべき態度についても記されていたのである。
しかし繰り返すが、フロイトがその実践についても才能を有していたという保証はない。それは偉大な作曲家がいかに優れた楽曲を生んだからといって、彼自身がそれを見事に演奏し、歌いこなせる保障などないのと事情は似ている。天才といわれるほどの才能は普通はかなり狭い領域に特化して生じるものだ。イチローは打者として天才でも、サッカー選手としては大成しなかっただろうし、少し前までは天性キッカーの代名詞だった中村俊輔だって、少年野球をやっていたら社会人野球どまりだった可能性がある。
さらには先ほどの第2の報告に見られるように、フロイト自身が自分が創出した技法をあまり忠実に守っていなかったという可能性が高い。もしそうであればフロイトは優れた精神分析の治療者であったか、という問いに対する答えは、すでに出ているといわなくてはならない。精神分析的な治療は、それを創始したフロイトのみが神髄を知り、正確に遂行できた、という幻想はおそらく多くの人々が漠然ともっていたものであろうが(私自身も時々そのような考えに浸ってしまうことがあるが)、それは事実と一致してはいなかったことになる。ことフロイト流の精神分析技法に関する限り、たとえばニューヨーク精神分析協会のような伝統を守る訓練機関において、多くのスーパイザーの厳しい目にさらされつつトレーニングを行った末に資格を得た分析家のほうが、よほど「フロイディアン」であったという意見はしばしば聞かれるのである。なにしろフロイトは自分では正式な分析を受けたことも、スーパービジョンを受けたこともない、ある意味では精神分析の歴史の中で、もっとも「正式なトレーニングを受けていない」分析家だったのである(!)。(フェレンチなどは、フロイトに「あなただけは分析を必要としていない人だ」と言ったといわれるが、もちろんフロイトに対して「あなたもスーパービジョンを受けてはいかがですか?」などといえる人などいるわけはなかっただろう。(Grosskurth, 1992)
では「分析の」という制約を外して、一般的な意味での治療者としてのフロイトはどうだったかを考えてみよう。するとこれがまた非常に悩ましい問題なのだ。治療者としてのフロイトの技量を論じる前に、治療者としての才能をどのように計測できるかについて、識者の間に一致した見解などないからである。そこでここからは私の個人的な考えにより、治療者としての能力を規定してみたい。
私は治療者の能力とは、患者の心を癒そうという強い情熱と、そこに伴いがちな自己愛的な満足を自制する力との絶妙なバランスにより決まるものと考えている。そしてそれは技能とか才能の類のものとは異なるのだ。たとえるならば子供を深く思い、懸命に世話をしようとする一方で、それが押しつけがましくならないように心がけている母親のようなものである。そのような人を「母親として優れた才能のある人」と形容するのはおかしいであろうし、同様に治療者としての天賦の才などというものも本来は概念化しにくいものなのだ。
良き母親はそれこそいたるところにいるであろうし、同じように良き治療者もそこここに存在している可能性がある。良き母親も治療者も論文を書いたりマスコミにもてはやされたりすることにあまり興味を持つとは思えない。だから彼らは特に目立つことなく市井に埋もれているのだろう。
医師でもある作家南木佳士(1997)が、丸谷才一のエッセイを引いて、医者に向く人の三条件を述べているが、これなどは私も非常に共感を覚える。その三条件とは「丈夫な体、やさしい心、まずまずの頭」だという。そして南木は「まずまずの頭」という条件に関して、「おそらくそれは切れすぎる頭は優しい心と共存しにくいからだ」と言っている。 
これは実に面白い視点である。私は「切れすぎる頭」がやさしさの障害となると確信しているわけではないが、事実としてありそうな気もする。いわゆる高偏差値人間が人を思う気持ちを併せ持つ保障は必ずしもないという実例をかなり多く見てきたつもりである。この丸谷氏の条件は医師一般に言えるのであろうが、精神療法家についてもおそらくあまり変わることはないだろうと思う。特に昨今の発達障害に関する議論の高まりは、高知能はアスペルガー傾向に結びつき、それは他人への共感能力とはどちらかといえば負の相関にあることを示しているのだ
フロイトの場合はどうか?彼の頭は・・・間違いなく切れわたっていた。切れすぎていたといってもいい。フロイトの残した著述のどこを切り取っても、高度の知性に自然に伴う難解さを感じ取れる。(ここで自然に伴う、とはつまり本人が難解さを狙っていたわけではなく、ただ俗人がその理論の展開のスピードについていけないために生じる難解さ、という意味である。)
フロイトの書き方は、いつも即興に近く、あたかも最初から文章が構成されたような形で出てきたという(Mahony, 1982)。同様のことは講演でも言える。1909年、アメリカのクラーク大学での講演(精神分析学入門の5つのレクチャー(日本語題は「精神分析について」)などは、フロイトはメモなしの即興の形で行なわれたといわれる。この種の才能に関しては、フロイトはまさに天才的だったといえる。
他方ではフロイトが患者に対してどれだけ暖かさを持っていたかについては、あまりいいニュースはない。伝記や書簡集から伝わってくるのはせいぜい、「フロイトは患者に対して過剰に冷たくはなかった」とか「暖かい側面を見せることもあった」というほどのことである。