2015年12月14日月曜日

フロイト私論(4)


フロイトは自分の自己愛の問題をどのように説明したか?
――― アドラーの「劣等意識」の議論に対するフロイトの反発を通して ―――

 フロイトが自己愛的な人であったということは、これまでの説明からある程度は了解していただけたと思う。すると次に問題になるのが、心の専門家たるフロイトがなぜこんなに大切なことをその著作の中で言わなかったのか、どうしてそれを彼の分析理論の体系に組み込まなかったのか、ということだ。それにはおそらくわけがあったのだろう。一つの可能性としてフロイトが、私たちが考えているような意味での自己愛の問題をそもそも着想として持たなかった、ということが挙げられるだろう。これは最も手っ取り早い理解の仕方だが、事情はもう少し複雑だろうと思う。そこでもう一つ考えられるのは、フロイトの理論が自分の自己愛的な問題を見ないための防衛だったという可能性である。
そこでフロイトが自分の自己愛的な傾向、ないしはユングの自己愛的な傾向(という呼び方をフロイト自身はしなかったわけだが)についてどのように説明したかといえば、それを自分の同性愛傾向として理解したようなのだ。これはユングと一緒にいて彼が起こした二回の失神(1909年、1912年)について、彼自身が下した診断だったわけである。つまり自分が潜在的に持つユングに対する同性愛願望が、様々な葛藤という形をとって表れているものだと考えたわけだ。(この事情はピーター・ゲイ(Gay, 1988)のフロイトの伝記に比較的詳しく書いてある。)
皆さんはこのフロイトの説明にどの程度納得がいくだろうか? もちろん性愛的な理論により人間の心を説明しようという見方は、フロイト理論の根幹であり、この様な理論はその意味では特に驚くに当たらない。それにおそらくユングに対するフロイトの様々な感情の中には、同性愛的なそれが一つの要素となっていた可能性もある。ただしもちろんそればかりではないだろう。人間はみな、他人から認めて欲しいという強い願望を持っているということを前提とすれば、そしてフロイトの驚異的な生産性が自分を認め賛成してくれるような存在をそれだけ多く求めていたとすれば、それでも十分フロイトとユングの間の葛藤を説明できるであろう。しかしそれをあくまでも性愛性一本で説明しようとしたことが、フロイトが同時代人の弟子達の多くを失った一つの大きな原因だった可能性はないであろうか?
このような事情は、フロイトとアドラーとの対立のプロセスにも表れていた。アドラーはフロイトの早くからの弟子で、ちょうどユングと同じ時期にフロイトと袂を分かった人である。日本では今アドラー理論が大流行といった感があるが、アメリカでもアドラー派が活発に学会活動を続けているが、それはフロイトとの論争の結果アドラーが米国にわたり独立の学派を築いたことに端を発している。そしてこのアドラーもユングと同じように、フロイトの性愛論について行くことが出来なかった人である。
アドラーという人は、恥と自己愛という文脈でぜひ触れておかなくてはならない人物である。というのも実は精神分析の創生期にこの自己愛的な問題について初めて正面から取り組んだ数少ない人がこのアドラーであり、それを論駁して行く過程でフロイトは同性愛の理論を固めていったと考えられるからだ。その事情を少し見てみよう。
アドラーがフロイトの性愛論、リビドー論中心の理論にあき足らずに自分の理論を作り上げていったのは1908年以降であるといわれる。アドラーが自分の感覚と経験をもとに作った理論はフロイトのそれとあまりに相容れないものになってしまったため、フロイトは当惑し、怒り、ついにアドラーはフロイトのサークルから脱退することになった。この時フロイトを怒らせたアドラーの主張を簡単にまとめるならば、人間は本来自分の弱さを克服し、力を獲得することを希求するものとし、それこそが人間にとって本質的な問題だ、という考え方である。彼は男性はもともと女性性や受け身性に対する恐怖を持ち、それに対する防衛から男性的な抵抗や主張を希求するようになると考え、またその試みの失敗が神経症を生むと考えたのだった。
このアドラーの視点は、人間存在を考える上で説得力ある視点の一つであることは確かである。そしてそれは私がこれまでに示した視点、つまり人間は本来他人から自分の存在を認められることを希求するものだという立場にも、考えの方向性としては通じるものといえよう。ただしアドラーが女性性に対する恐怖や劣等意識をその根底に置くとしたら、私の立場はそれとは異なる。私は自己愛的欲求と恥に対する恐怖は表裏一体であり、どちらが先かを論じることは出来ないと考えるからである。
ところがこの一見わかりやすい議論が、おそらくはそのわかりやすさゆえにフロイトにはまったく受け入れがたいものだったのだ。このアドラーの議論はあまりに皮相で、意識的な心の動きを重視したものであり、性愛性や無意識の重要性を前提にした精神分析理論とは異なるとフロイトは主張した。そしてアドラーの劣等意識や男性性の主張は、同性愛願望やエディプス・コンプレックスの議論により説明される、と主張したのである。つまりアドラーが女性性や受け身性に対する恐怖として説明したものは、実は同性愛願望に対する恐怖として説明されるべきであること、そしてそのような同性愛願望は、彼が言う「陰性エディプス・コンプレックス」として理解されると述べたのだ。

この部分のフロイトの論旨は、理論的な整合性はともかく、私には実感を持って追うことが出来ない。フロイトの理論の中でも、私には最も疎遠な発想に感じられるものだ。もちろんこの同性愛的な傾向というのも、ユングやフリースとの関わりの中でフロイトが持った実感だったのではないかと思う。しかしフロイトの同性の話し相手への執着は、彼自身の自己愛的な満足体験を求めたものであるという理解の仕方の方が、より奥行きがあるように思える。