2015年12月15日火曜日

フロイト私論(5)

フロイトはエディプス理論を、自己愛的な傷つきに対する防衛として用いていたのではないか?

  さてフロイトはユングとの確執についてもう一つの説明を用いているが、こちらの方も重要である。それはエディプス理論に基づく考え方だ。フロイトは、ユングが自分の理論を確立し、フロイトの提唱する理論から遠ざかって行くことについて、次のような説明をした。「ユングは父親コンプレックス(エディプス・コンプレックス)を解決していないからだ。」「ユングは私を殺して私の座に取って代わろうとしているのだ。」それを典型的に示すのが、1909年にユングを前にして気を失ったという逸話である。つまり最近発見されたミイラの話をしたユングに対して、それは私が死ぬことの願望の表れだ、と解釈を施したのだ。
確かにこの時のフロイトは、ユングの存在を脅威に感じていたのかもしれない。フロイトは自分が確立した精神分析学の後継者としてユングに大きな期待をしていたが、それはまたユングによって自分の座を追われる可能性をも意味していたからである。ただしフロイトはその点にのみ目を奪われて、もう一つの感情を十分に体験していなかったのではないか、というのが私の仮説である。ではそのもう一つの感情は何かといえば、それはユングから見捨てられる、相手にしてもらえない、ということへの恐れである。この点についてはもう少し説明が必要であろう。
 そもそも感情的に対立している相手が、自分に父親殺しの願望を持っているという発想の前提となっているのはどうことであろうか? それは自分が父親のように強く、息子がそれを乗り越えるために打ち倒さなければならないような存在であるということだ。ところがこの強気の論理は、自分が弱くて取るに足らない存在であり、相手から見捨てられようとしている、という可能性をうまく防衛していることになる。私はフロイトとユングとの関係が非常に錯綜したものであり、そこに様々な幻想や思い入れがあり、分析用語で言えば様々な転移関係を含んだものであったと思う。それを前提として言うのだが、フロイトの論理には、自分が相手を圧倒して殺害願望を起こさせている、という強気な側面が強調される傾向があり、他方では、自分の弱みや見捨てられ不安を表す用語がどちらかといえば不足している印象を持つ。否、確かに受け身性や他人に対する従順な態度はフロイト理論に出てくるのだが、それは彼自身がそうしたように同性愛的な願望、という性愛化された感情に置き換えられている傾向があるのだ。フロイトの人となりには、何かこの種の弱音を見せない、自己韜晦的なところがあるように思えるのである。

自己愛とエディプスの問題、あるいは「肯定されたい、わかって欲しい」と、「勝ちたい、他人を打ち負かしたい」ということ

最後に、自己愛の問題とエディプス葛藤の問題について一言まとめておきたい。この問題は精神分析理論を学ぶ私たちを混乱させ、悩まさせるものの一つだと私は考えるが、フロイトの例を考えた機会を利用して是非触れておきたいものである。この問題は、実はコフート派の考えをフロイト的な考え方との違いから理解する上での一つの視点を提供してくれるものだ。
あまり理論的になるのを避けるために、非常に具体的な話をしたい。私がこの文章を書いているという行為をどう考えるべきであろうか? 私のこれまでのお話しからお察しの通り、それは非常に自己愛的な行為である。すなわち私は人にうなずいて欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しいという気持ちを持っているし、それはそれと対になっている、いいかげんな文章を書いて恥をかきたくないという不安と同様に非常に強い気持ちである。そのような時、私は同時にエディプス的な願望を持っているのだろうか? 胸に手を当てて考えてみると、おそらくそれも否定できないかもしれないという気もする。そのエディプス的な願望を単純化して言うならば、ここで書いている私の主張に対する反論をすべて打ち負かしたい、という願望である。これは全くないわけではないのだ。ではこれと先ほどの自己愛的願望のどちらがより本質的なものなのだろうか?
この問題から様々な主張が分かれてよいことになる。つまりこの自己愛的な願望と、エディプス的な願望の関係を巡った理解の仕方が人により異なるわけだ。もちろんフロイトならばエディプス的な願望を本質的なものとして主張するであろう。他方コフートであったら、エディプス的な願望は、自己愛的な願望の防衛である、と主張するであろう。おそらくこの両者のうち正解がどちらかにあるわけではないのだ。しかし私自身にはやはり、コフート的な考え方の方がより真実味を持っていると感じられるのだ。つまり私が皆さんの反論を打ち負かしたいと思うとしても、それは私がいい気分になって自分の考えを述べている時に、それを誰かに批判されたその時から強く頭をもたげてくる願望なのだ。つまりエディプス的な願望は、自己愛的な願望が満たされるのを邪魔するようなある第三者が登場した瞬間から始まると考えられるのである。もちろんそれは私自身の体験であり、人によっては周囲を打ち負かしたいという願望を、自己表現の基本的な動機として有する人もいるかもしれない。でもそのような人はむしろ例外的ではないかと思う。
ちなみにここで(自己愛的な願望が満たされるのを邪魔するような、ある)第三者、と言ったが、自己愛的な願望は常に二者関係的なところがあるのは事実である。つまりそれは最早期には母親と自分の関係の中で育まれ、それが父親や兄弟の登場により崩される、という構造を持つ。もしこのエディプス的な願望が、自己愛的な願望に対する防衛として生じているという議論が多くの場合において正しい場合、患者さんに対する治療的な介入はエディプス理論に基づくものとは非常に違ったものになる。例えば治療者に対して挑戦的な態度や敵意をむけている患者さんがいたとしよう。その様な時にエディパルな解釈にしたがった場合は、その敵意をプライマリーなものとみなし、その患者さんが治療者を打ち負かしたい願望の直接的な表れと見ることになるが、自己愛的な解釈は治療者あるいはそれ以外の人により、現在ないし過去において自己愛的な傷つきを体験した結果、その敵意や怒りが生まれたと考えるわけである。