フロイトとユングとの関係
フロイトとユングとの数年にわたる関係については、何冊かの本でかなり詳しく窺い知ることが出来るが、そこではフロイトが対人関係の中で具体的に何につき動かされていたかが分かる。それは彼の精神分析理論とは別に、実生活で彼が見せた行動とその病理の可能性を表現しているといえよう。そこで感じられるのは、フロイトとユングとの関係は合理的な関係に留まるものではなかったということだ。単に互いの理論が食い違うだけならば、そこで冷静に議論をして、お互いに得るところを模索するべきであろうし、そのような付き合いを通じて互いを高めあう事が出来るだろう。ところがフロイトとユングの関係を支配していたのは、理論とは別の、むしろ情緒レベルでの交流であり、その破綻が二人の訣別を決定的なものにしたのだ。
ともに心理学史上の巨人とみなされ、一時期はあれほど親密な関係にあったフロイトとユングは、どうして別れなければならなかったのか?1907年3月に最初に出会った時は、13時間もノンストップで話し続けたという逸話は有名であるが、それほどまでに意気投合した彼らが、どうしてほんの数年後には訣別してしまったのだろうか? 二人の関係を追って行くと、フロイトはユングが自分の理論を作りはじめ、自分から独立して行くことに耐え難かったという事実が浮かびあがってくる。この時期のフロイトには、自分の作り上げた精神分析理論をそのまま肯定しない人に対しては、感情的になりそれを排除する傾向が目立ってきた。もっともフロイトは自分の理論に一致しない考えをことごとく排除しようとしたわけではない。それが自分の理論の根幹部分に関わるものでない限りは、比較的寛容な姿勢を示す事もあった。つまり相手の理論より自分の方が優れ、それを説得により変える自信がある限りは、そこに自己愛的な傷つきが伴わないわけで、それだけ心の余裕を保つ事も出来たのだ。とすればやはり自己愛的な問題、つまり相手が自分を受け入れていると感じられるかどうかが、フロイトがその相手の理論を受け入れるかいなかの鍵であったといえる。
事実フロイトはユングが理論において自分と非常に隔たっていることがわかっても、最初のうちは寛容だった。たとえばリビドーは性的なものに留まらず、一種の生命エネルギーであるというユングの考えは、二人の関係が始まった最初のころからユングの中にあり、それをフロイトも知っていたのだ。あるいはユングは患者と性的な逸脱を起こしてかなり奔放なふるまいをしたことが知られているが、たとえそれがいかにフロイトの唱える禁欲原則に反していたとしても、フロイトはユングを破門するどころか、それを慰めるような手紙さえユングに送っている。ユングが自分に従う意思を示し、手紙を頻繁に送ってくる限りは、この様な決定的ともいえるユングの逸脱行為もフロイトは許す事が出来たのだ。
ところがフロイトにとって痛手だったのは、そのようなユングからの手紙の頻度が次第に減っていったことだった。1911年頃になると、ユングはフロイトから精神的に独立する態度を表し、フロイトはユングからの手紙が遅いことを非難するといった姿勢が見られた。1912年二月、ユングは、「自分は自分自身の仕事の方により多くのリビドーを向けるようになった」と認める手紙を送っている。こうしてユングはもはや自分が任されていた国際精神分析学会会長としての仕事を続ける意欲を失って行き、それを許す事の出来ないフロイトは苦悩のうちにユングとの訣別を決心することになる。
しかしそれでも二人は本当に別れたかったのかがわからないようなエピソードもある。いわゆる「クロイツリンゲンの振る舞い」も1912年に起きた出来事だったが、スイスのクロイツリンゲンに病床にあったビンスワンガーを見舞ったフロイトが、近くのチューリッヒに棲んでいたユングのもとに立ち寄らなかったことを、いつまでもユングは恨みがましく思っていたという。このフロイトとユングのやりとりをみていると、お互いに相手に振られたと勘違いして分かれていく、二人の非常にプライドの高い恋人達のようだという印象すら受ける。ユングの方もフロイトとの訣別に深く傷つき、アーネスト・ジョーンズにフロイトとの仲の修復を頼んだりしたとつたえられている。たとえ信じる理論が異なろうとも、ともに人間の深層心理に魅せられた心の探求者であることには変わらなかったのであり、二人が何等かの形で関係を維持する事は互いに有益であったに違いない。しかし二人とも関係を続けて行くことは、自分の自己愛やプライドが許さなかったのであろう。
ただしこの場合私はやはりフロイトの方により多くの非を感じてしまう。というのも、彼は20歳もユングより年上でありながら、ユングが自己を確立して、独自の理論を打ち立てていくことを許せなかったからだ。一方のユングとしては、自分の独自の理論を作り上げることによりフロイトと理論的な距離が出来るのは当然であるし、フロイトのプライドを守ってあげるために汲々とする必要はなかったのだ。いうならば、年齢的にはユングの父親に近いといってもいいフロイトが、ユングに対して本当の意味で父親的な態度を示せず、まともにライバル心をむき出しにしてしまったことが問題だったわけだ。これはやはりフロイトが持っていた自己愛の病理の未解決な部分のせいといえるだろう。