2015年12月10日木曜日

フロイト私論(1)


フロイト私論 
-自己愛の文脈から見たフロイト
-恥の病理から見たフロイト
-スタイリストとしてのフロイト


この論考は、フロイトを様々な視点から眺めることを目的としている。私はフロイトは彼が自らについて作り上げていたイメージや、彼が打ち立てた理論と実像とに大きな違いがあるように思う。そして彼の実像に迫ることが、その理論を逆照射するという意味を持つと思う。彼が活躍した時代から一世紀が過ぎようとしているのに、フロイトの理論がこれほど大きな影響を及ぼし続けている以上、この様な作業にもそれなりの意味があると考える。
私の彼の理解は、もちろん私の理論的なバイアスの産物でもある。それを承知の上で、フロイトに対する三つの視点を挙げたい。それは、自己愛的な文脈、恥の病理という文脈、そしてスタイリストとしてのフロイトという文脈である。

自己愛の文脈から見たフロイト
-精神分析の祖は自己愛的な人間だったのか?

フロイトの人生を辿ってみると、人がつながったり離れたりするきっかけとしてもっとも大きなものの一つはプライドであり、裏切られることによる自己愛の傷つきの恐れであるという印象を強く持つ。端的に言えば、フロイトの人生はまさに「コフート的」な世界であったといえよう。というのも彼の人生を振り返ると、フロイト自身はコフート的な治療者を追い求めていたのではないか、という印象を受けるからだ。彼を支えた人々、つまりブロイアー、妻のマルタ、フリース(フロイトより2歳年下)、フェレンチ(フロイトより22歳年下)、ユング(フロイトより20歳年下)、その他の人々は、まず第一に彼の説の良き聞き役であった。そしてフロイトが彼らに話を聞いてもらい、わかってもらっていると感じる限り、それらの人々との良好な関係は続いたわけである。そしてまた、それの周囲の人がそのような役割を負えなくなった時、フロイトは彼らから精神的に遠ざかっていった。(とはいえ彼は妻のマルタとは添い遂げたわけだが、婚約時代にあれほど熱烈な手紙を書き送ったフロイトが、結婚後はその情熱を別の人々に振り向けてしまったという印象は否めない。)だからもしフロイトがコフート的な治療者を一生持ち続けたら、フロイトの交友関係はもっと安定したものになっていた可能性があるだろうと思う。でもそのかわり、二十巻以上の全集を生むようなあれほどの多産さを示したかどうかはわからない。というのもフロイトの書くという作業の一部は、それにより自分の説の正しさを証明し、周囲から理解して欲しいという願望に基づいたものだったからだ。例えばフロイトの「科学的心理学草稿」という初期の論文は、本来フリースに宛てられた手紙を集めたものである。またシュレーバー症例は、精神分析が分裂病の治療に有効であるということを、その頃分裂病に興味を示していたユングに対して示すという目的があったともいわれる。
ところで私がフロイトの人生を考える上で一つの仮説として考えていることは、彼の人生の後半になり、その自己愛の質が変ってきたのではないか、ということである。結論から言えば、フロイトの自己愛的な欲求は、彼が業績を積み、地位を確立していくにしたがって、私の考える自己愛の第一のタイプから第二のタイプに変わっていったと考えられるのだ。
ここでいう二つの自己愛のタイプは、相手に「わかってほしい」という願望の種類により分けられるものである。第一のタイプは,患者さんが話を聞いてもらえるだけでとりあえず満足するような,つまりコフートのいうミラーリングを体験することでとりあえず満たされるような種類のものである。そこで患者さんは, 自分の存在そのものを肯定され.受け入れられながら生きているのだという感覚を昧わうわけ
だ。この場合,わかって欲しい対象は,自分の存在そのもの, と言うことができよう。それに比べて第二のタイプでは,患者さんは自分の持っているもの,容姿,業績,地位といったものについて肯定してもらうことを望む。患者さんは自分の存在そのものというよりは, 自分を定義するような何か、自分が持っている何かについて見てもらい司認めてもらうのだ。つまりこの場合,「わかって欲しい」対象は,自分の持っているもの,自分に属しているもの,と言うことができまる。

 この第一から第二のタイプの自己愛への推移は、フロイトのフリースとユングとの関係の違いに顕著に表れているといえるであろう。フリースはおそらくフロイトが第一のタイプの自己愛を満たすための相談相手であったのに対して、ユングはフロイトの第二のタイプの自己愛に関わっていたのだ。
もう少し具体的に見てみよう。フリースを相談相手にしていた1890年代は、フロイトはフリースを自分にとってのアドバイザーとして扱っていたというニュアンスがある。だから情緒的には、フリースはシャルコーやブロイアーなど、彼を教え導く父親的な人々に類似した存在だったといえる。実際にフロイトは自分の理論にフリースのいくつかの説を取り入れたりしているのだ(たとえば周期説や、両性具有説などである)。
ところが1900年代にユングにのめり込むようになり、さかんに手紙を交わすようになったフロイトは、自分の方が20歳も年上であることもあり、相手に対して自分の説を全面的に受け入れる事を期待し要求するような、絶対的な師弟関係を求めるようになる。そしてフロイトは自分の説に関しては、かなり融通が利かなくなっていった。これはむしろ自分がこれまで積み上げた理論や精神分析の組織が、自分を取り囲む自己愛的な衣服や鎧のようになり、それを防衛することにエネルギーを注ぐようになったことを意味する。そしてこの自己愛的な病理は、かなりカーンバーグ的な、あるいは先ほどの第二のタイプの自己愛のニュアンスを帯びてきたといえよう。