2015年12月25日金曜日

フロイト私論(15)


 よく精神療法の世界では、治療者としての力を考える上でカール・ロジャースのクライエント中心療法に見られるような的な資質が論じられる。すなわち患者に対して示す愛他性や共感能力、あるいは治療的な情熱といったものが重要視されるのだ。これは丸谷のいう「優しい心」に相当すると考えていいであろうが、フロイトはそのようなものを、少なくとも治療者の要件とは少しも考えていなかったようである。むしろフロイトは治療者としては、科学者や外科医のような冷静さ、冷酷さを強調していたのだ。もしフロイトが「あなたは治療者としての暖かさを患者さんにはあまり示さないのですね」といわれても、フロイトは肩をすくめるだけだっただろう。
ところで「優しい心、まずまずの頭」という治療者の条件に関しては、反対意見も当然おきうる。治療者が病気を見出し、それを確実に取り去るという作業を遂行するならば、そこに「やさしさ」は必ずしも必要ではない。私は心理療法において「やさしさ」の要素の介入しないかかわりはあまり想像できないが、たとえば外科医のモデルを考えるならば、それはありうるだろう。外科医が診断と治療に関する正確無比なマシーンとして機能するならば、それはそれで患者に対して貢献するに違いないからだ。そしてフロイトが治療者として目指していたのも外科医的なそれであったというニュアンスがある。
外科医の場合は、現実の事物を扱うことを通しての人への貢献が特徴である。難しい手術や手技を遂行することは、それを受けた患者の喜びを直接目指すこと以外にも、物(肉体を含む)に刻まれた美しさや整合性を通した充実感や喜びがともなう。フロイトの場合も彼が目指していたのは、ある手法、メソッドを適応することによる成功という、理科系特有のワンクッション置いた人間への貢献だったといえる。
そしてもちろんこの優秀な外科医という比喩は誤解を生む可能性がある。フロイトの場合、その手術方法は彼自身の中では確実に治癒に導く可能性があるが、十分なエビデンスがあるわけではなかった。でも十分根拠のない、しかし新しい画期的な手術方法を精一杯やったという事でその外科医の倫理性が問われるのであれば、歴史上の多くの革新者も同罪となるだろう。
フロイトが治療者として持っていた情熱は、実は教育者としてよりよく発揮されていた可能性がある。フロイトが残したといわれる言葉で注目に値するものがある。「私は神経症患者よりも、生徒の方が10倍好きだ。」(Wortis, 1994, p.18)というものだ。これは何を意味するかといえば、フロイトにとってはおそらく人に癒しを与えることよりも知識を授与することの喜びが勝っていたということである。そしてこれもまた知識という具体物を伝授することによる間接的な人類への貢献である。実際フロイトはその種の能力に関してはきわめて高いものを持っていた。彼が書いたものも、レクチャーも一級品であった。それは彼の24巻の全集がいまだに読まれ続けていることからも明らかであろう。

最後に - フロイトの人間性について考える

この「フロイトの人間性は果たしでどうだったのか?」という問いを立てながら、思わず苦笑してしまった。結局人間フロイトについて、最終的には全面的に肯定したいという私の願望が表現されているからだ。冒頭にはあれだけフロイトがさらされている逆風について書き、しかも天才は特化されたことにしか才能を発揮できないと主張し、フロイトは治療者としても正式なトレーニングを受けてはいなかったという趣旨のことを書いたあとで、でも最後には「フロイトは結局人間全体としては素晴らしかった」と書いて終わりたいのである。
しかし結論から言えば、私はフロイトはその才能は別にしても、ひとりの人間としてもまずまず尊敬するに値する人物であったと考える。すくなくともフロイトは人を利用し、搾取することに積極的な喜びを見出すような人間であったとは思わない。ただこれまでも述べたとおり、フロイトは特別高潔な人間ともいえず、倫理的なレベルとしてはむしろ平均的であった。
他方ではフロイトはきわめて野心的でかつ自己愛的であり、精神分析の運動のためにはしばしば盲目的となった。そのような側面が「フリンク・スキャンダル」のようなエピソードに表れていたと考えるべきだろう。フロイトが特別不道徳的な人間であったというわけではない。平均的な道徳観念を持った人間はしばしば自分の自己愛的な欲求の満足に関しては善悪の見境がつかなくなりがちなのだ。もちろんそれは望ましいことでは決してないが、これは人間の性というべきだろう。
この、「平均的な人間は道徳的な過ちを起こすこともある」という主張は無茶な話だろうか? しかし例えば多くの政治家が政治献金を適切に申告しなかったり、国立大学の教授が国庫からおりた研究助成金の余剰を返納せず、隠し金としてプールするといった違法行為に集団で手を染めてしまうといった、日常的に私たちがニュースで目にする現象のことを私は言っているに過ぎないのだ。
もちろんフリンクとの一件は多くの犠牲者を出す様な事態を引き起こしたのであり、金銭的な問題よりさらに深刻な倫理的な問題であるという意見はあるだろう。しかしフロイトは自らの「潜在的な同性愛」という学説を信じていたのであり、それを用いた治療がそこまでの不運な結果をもたらすとは予想していなかったのであろう。だからフリンクの治療そのものが非倫理的であったとは言い切れないのである。
フロイトが野心的であり、精神分析を広げるという大義のために患者への顧慮が足りなかったという点は、私たちがおそらく一番がっかりする部分である。ユングには患者をrabble(「下層民」というほどのニュアンスか?)と呼んでいたというエピソード(McGuire, 1974)などもあまり信じたくないはないが、フロイトの人間性や倫理性を問いたくなるような同種の言質は決して少なくない。しかしそれを離れたフロイトはごく一般的な配慮と理性と、優しささえ持った人間だったようである。
私がそう考えるのは、フロイトが家族に対して、そして友人に対して示した態度にも注目するからだ。たとえばフロイトはよき家庭人であり、普通のgood enoughな父親であったように見受けられる。末息子のマーチン・フロイトの自伝(Freud, M. 1983)が描いているフロイトはおおむね子供思いでやさしい。それによれば、フロイトは息子が将来どのような仕事につくべきか、という相談には、仕事で忙しくても夜遅くまで相談に乗ってくれた、という。
もちろんフロイトの子供たちへの態度に問題がなかったかといえばそうではない。フロイトは3人の息子達に、医者になることを厳しく禁止したという。そこには息子たちに追い落とされ、負かされ、あるいは象徴的に殺害されるのではないかという、フロイト自身の未解決なエディプス・コンプレックスが関係していたのだろう。
またフロイトが末娘のアンナに対しても父親でありながら数年間にわたって精神分析を行っていたという事実は、精神分析界の内部でも様々な議論を呼んでいる。特にアンナが父親への強い執着とともに未婚のままで精神分析に身をささげることになったことを考えれば、そのフロイトの「治療」が必ずしも良い結果をもたらしたとはいえないという主張も十分頷ける。
しかしそれでもフロイトはおおむねよき家庭人であり、子供たちに情愛に満ちた父親として接していたとした点は評価すべきであろう。フロイトが精神分析を離れた時には普通の父親であったことが、アンナにとっての救いだったという逆説もそこにあったのであろう。 
精神分析を離れたプライベートな生活でフロイトが示した人間らしさや優しさは、実は患者たちにさえも発揮されていた、といったら読者は若干混乱するだろうか? たとえば前出のリプトンの研究などからも明らかなように、フロイトはねずみ男に食べ物をふるまう、個人的なことを話すなどの治療者らしからぬ側面を見せている。さらにはすでに紹介したリンの研究から推し量ることができるのは、フロイトはこの種の人間としてのかかわりをおそらくほとんどの患者に対して行なっていた可能性である。
もちろんフロイトはこれを治療とは考えなかったのであり、患者と一人の人間として接することの持つ治療的な意義についてフロイトが顧慮しなかったことは問題ではあるが、患者を一個の人間として遇したという点については依然として評価するべきであろう。
フロイトはこうして、構成の分析家や分析研究者達に、治療構造と治療効果のきわめて複雑な関係というきわめて悩ましい問題を残していったのである。
最後に結論めいたことは何も書けないが、フロイトはその天才の部分と精神分析への自己愛的なこだわりを除いては、常識的な人間であったと私は考える。その世界に与えた影響の大きさゆえにいまだに毀誉褒貶にさらされているが、要するにいろいろ突出した部分を備えた人間であったということだ。私たちはそれらの突起の部分に関して、倫理的な善悪とは別に(善悪を問わずに、ではなく)冷静な目を向けることで、フロイトの人間としての全体像が浮かび上がってくるのではないかと私は考えている。

参考文献 (省略)