2015年12月27日日曜日

関係精神分析の新たな流れ(また推敲)(1)

初めに

本稿では関係精神分析の最近の動向について論じてみたい。
関係精神分析(relational psychoanalysis, 以下RPと記す) の動きは、確実に拡大を続けているという印象を受ける。RPは特に北米圏でその勢いを拡大させている。RPの事実上の学会誌といえる「Psychoanalytic Dialogues」は、今年ですでに創刊25周年を迎える。1991年の1月にスティーブン・ミッチェルStephen Mitchellが創始したこのジャーナルは、最初は小さなグループの手によるものであった。しかし今では数百の著者、70人の編集協力者を数えるという。最初は年に4回だったのが、1996年にはもう年に6回も出版されている。この紙面を毎号飾る斬新な特集のテーマは、まさにRPの動きをそのまま表していると言っていい。
そもそもPRとはどのような動きか?RPはそれ自体が明確に定義されることなく、常に新しい流れを取り入れつつ形を変えていく動きの総体ということができる。RP をめぐる議論がどのように動いていくかは、予測不可能なところがある。私は個人的には、アーウィン・ホフマンIrwin Hoffmanの理論により、その総体をすでに見せてもらっているが、それはあくまでも全体的な見取り図であり、あとはその各論がどのように展開され、論じられていくかは予想が難しく、その時代の流れに大きく影響を受けるであろうという理解をしている。
 とはいえRPの今後の行方をある程度占うことは出来るだろう。世界が全体としては様々な紆余曲折を経ながらも平等主義や平和主義に向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、倫理的な配慮がその基本的な方向付けを行っている。精神分析におけるこれまでの因習や慣習は、それが臨床的に役立つ根拠が示されない限りは再検討の対象とされたり棄却されたりする。
RPの繁栄の要因についてMills, J. (2005) はいくつかを挙げている。それらは分析的なトレーニングを積んだ心理士が増え、彼らは伝統的な精神分析インスティテュートによる教育ではなく、より新しいトレンドを学んでいること、そして最近の新しい著作の多くは関係性理論に関連するものであること、そしてRPになじみ深い分析家が主要な精神分析の学術誌の編集に広く携わるようになっていることなどである。
このミルズの指摘に付け加えて筆者が強調したいのは、RPが非常に学際色が強く、そこにさまざまな学派や考えをどん欲に取り込み、枝葉を広げていく傾向や、臨床に応用可能なら何とでも手を結ぼうという開放性が一種の熱気や興奮を生み、それがひとつのmomentum を形成しているという事情である。そしてそこにはそれらの熱狂を支える幾人かのキーパーソンがいる。具体的には故Stephen Mitchellをはじめとして、Peter Fonagy, Allan Schore, Jessica Benjaminといった面々の顔が浮かぶ。
このようなRPの流れは、全体として臨床上の、ないしは学問上位の自由や独創性を追求する流れ、ホフマンの言う治療者の「自発性」の側面に重きを置いたものと言えよう。しかしそれは必然的に伝統的な精神分析の持つ様々な慣習や伝統を守る立場(ホフマンの言う「儀式」の側面)からの抵抗を当然のごとく受ける。本稿ではその問題についても触れたい。

 「関係論的旋回」およびそれへの批判

RPの歴史を簡単に振り返ろう。RPの動きはいわゆる「関係論的旋回relational turn」と呼ばれ、1980年代にJay Greenberg Mitchellよるある著書により、事実上先鞭をつけられた(Greenberg, JR and Mitchell,SA (1983) Object Relations in Psychoanalytic Theory. Harvard University Pressグリーンバーグ,ジェイ・R. ミッチェル,スティーブン・A. 横井公一訳:「精神分析理論の展開」欲動から関係へ ミネルヴァ書房、 2001)。その「旋回」の特徴として前出のMills は幾つかを挙げている1に、従来の匿名性や受け身性、禁欲原則への批判であり、第2に治療者が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたことであり、第3RPの持つポストモダニズムという性質である。
 これらのうちの第1については、ある意味では当然と言えよう。従来の精神分析で一般に非治療的とみなされていた介入、例えば自己開示などは、これが治療可能性を含んでいる以上はRPにおいてはその可能性がさらに追及されることになろう。また第2については、RPにおいては臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えたと言える。RPの分析家たちは、互いの学会でも自分自身の心についてより語り、また自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまりよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求める立場からは明らかに距離を置くようになっている。第3に関しては、RPにおける治療者のスタンスは紛れもなく解釈学的でポストモダンなそれであり、そこでは真実や客観性、実証主義などに関して明らかに従来とはは異なる態度をとっている。
さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?まず非常に明白な事柄から指摘しなくてはならない。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。フロイトの悲願は無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
フロイトは次のように言った。「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe science of unconscious mental processesFreud (1925, p. 70) あるいは「無意識こそが真の心的現実であるthe unconscious is the true psychical reality

(Freud , 1900. p. 613)。意識を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは依然としてなすすべもないままである。ただしこの問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の訴状で扱うことの適切さにさえ及びかねないので、この問題は一時棚上げにし、RPに対する批判の幾つかを挙げたい。