2015年11月26日木曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (2)


本稿の一つの目的は、自己開示の是非を問うことではなく、まず自己開示を広くとらえ直してそこにどのような種類があり、どのような利点と問題があるかについての見取り図を提供することである。匿名性を守るか、自己開示をするのかは、それらを勘案したうえで、その時々に治療状況で判断されるべきものである。しかしその背景にあるのはこの私の治療者の自己愛という発想である。つまり治療者という人種は、匿名性を守るという方向にも、それを犯すという方向にも走る可能性を持っているのであり、そのことを理解したうえで、この自己開示の問題を捉えなおさなくてはならないという考えである。
以上を前置きにしてさっそく本題に入っていきたい。

治療者の自己開示をめぐる従来の論点
先ず従来の自己開示についての論点について考えたい。基本的な点として理解しなくてはならないのは、自己開示はフロイトによれば「暗示 suggestion」になってしまうということだ。ここでフロイトが解釈以外のあらゆる介入を「暗示」とみなし、それを非治療的なものとみなしたことを思い出していただきたい。彼にとっては、患者の無意識内容に言及する介入、すなわち「解釈」以外は治療的ではなかったのである。それを彼は一括して「暗示」としたのであった
 伝統的な精神分析理論の中での「自己開示」については、それが中立性や禁欲原則に抵触するのではないか?という問題もある。もちろん中立性や禁欲原則が具体的に何を意味するかについては、論者により微妙に異なる可能性がある。しかしいずれにせよ「自己開示」はそれらの原則が示す方向性とは異なる介入であるとみなされることは確かであろう。治療者が自分の考えを伝えることで、その中立的な在り方を損なう可能性はあるであろうし、治療者のことをさらに知りたいという患者の願望を満たしてしまうという意味では禁欲原則にも反するということになる。
さらには自己開示が転移の自由な発展を抑制してしまうのではないかという懸念も唱えられてきた。精神分析では、患者は治療者のことを知らないほどさまざまな想像力を膨らませると考える。例えば治療者の出身地が分からないことで、すべての件についてそこの出身地である治療者を想像できることになる。しかしA県出身であることが分かったとしたら、それ以外の治療者は想像できないということになるわけである。
 この理屈は自己開示を戒める意図でよく聞かれるが、充分に説得力があるとは私は考えていない。たとえば次のような例と似ているのではないか。「映画やビデオや漫画などは、人の想像力を限定してしまう。ラジオや活字で聞いたり読んだりする本は、映像がない分だけ人の想像力をかきたてるのだ。だから活字の方が私たちにとって有益なのだ・・・・。」 おそらくこのロジックにも誤りはないだろう。しかしではなぜ、私たちはしばしば映画やビデオなどの映像に、より強いインパクトを感じるのだろうか。より公平性を期すならば、読書によりインパクトを受けることもあり、映画に影響を受けることもある、と言うべきだろう。要するに何が想像力を生むかはケースバイケースなのである。
転移の話に戻ると、治療者がA県出身であることが何らかの形でわかることで、急に治療者に関するイマジネーションが膨らむこともある。「北海道出身」と聞くことで、北海道に関する様々なイメージが浮かび、それと治療者を結びつけるということがあるだろう。これは何県出身かもわからない段階では生じないことだ。漠然とした情報では、私たちは想像を膨らますことが逆にできないという面もある。このように自己開示は転移を促進される場合もあるのである。
自己開示と「自分を用いる」こと
現代の精神分析においては、自己開示はタブー視されるテーマではなくなってきている。海外では自己開示についての論文は1960年代あたりから多くなってきているからだ。私自身は、自己開示の問題は、より広い文脈で、すなわち治療者が「自己を用いること use of self(T. ジェイコブス) という観点からとらえ直されるべきであると考える(「新しい精神分析」、岩崎学術出版社、1999年)。「自己を用いる」というジェイコブスの著作にみられるように、治療において治療者の側が自分をいかに用いて治療を行うべきかというテーマは、受け身性や匿名性という原則を考えるうえで必然的に浮かび上がるテーマといえるであろう。たとえ治療者は受け身的にではあっても、確かに自分自身の感受性と人生経験を介して患者に会い、介入を行うのである。患者の自由連想に見られる無意識内容を把握するという治療者の作業は、決して自動的、機械的ないしは技法的なものだけとは言えない。そこには治療者の人生経験や人間としての在り方が深くかかわっているのである。積極的であれ、受け身的であれ、治療が治療者自身を用いるという形で起きている以上、自己開示を治療的な介入の中で特別視する必要も無くなってくる。それに、のちに述べるように自己開示はあるものは自然に、ないし不可避的に、無意識的に治療場面で生じてしまっているものでもあるのだ。