関係精神分析の最近の動向について論じてみたい。
関係精神分析(relational psychoanalysis, 以下本稿ではRPと記す) はその動きが拡大の一途をたどっているという印象を受ける。RPの代表的な学術誌と言える「Psychoanalytic Dialogues 精神分析的対話」は今年で25周年を迎える。最初に出版されたのが1991年の1月であるが、ミッチェルが創始したこのジャーナルは、最初は小さなグループによるものであった。しかし今では数百の著者、70人の編集協力者を数えるという。最初は年に4回だったのが、1996年にはもう年に6回も出版されている。
そもそもPRとはどのような動きか?RPはそれ自体が明確に定義されることなく常に新しい流れを取り入れつつ形を変えていく動きの総体ということができる。RP をめぐる議論がどのように動いていくかは、予測不可能なところがある。私は個人的には、アーウィン・ホフマンIrwin Hoffmanの理論により全体像を見せてもらっているが、それはあくまでも全体的な見取り図であり、あとはその各論がどのように展開され、論じられていくかが時代の流れに大きく影響を受けるであろうという理解をしている。
とはいえRPの今後の行方をある程度占うことは出来るだろう。世界が全体としては様々な紆余曲折を経ながらも平等主義、平和主義にゆっくり向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、その背後には倫理的な配慮が基本的な原動力となっている。これまでの因習や慣習は、それが保持される根拠が示されない限りは疑問符を突き付けられ、必要のないものは排除される方向にある。ただしこの流れが全体としてホフマンの言う「自発性」の側面に裏付けられるものだとすれば、それは伝統的な精神分析の持つ様々な慣習や伝統を守る立場(ホフマンの言う「儀式」の側面)からの抵抗を当然のごとく受ける。そして実際にそれは現在の精神分析において生じていると言えよう。
とはいえRPの今後の行方をある程度占うことは出来るだろう。世界が全体としては様々な紆余曲折を経ながらも平等主義、平和主義にゆっくり向かうのと同様、精神分析の流れる方向も基本的には平等主義であり、その背後には倫理的な配慮が基本的な原動力となっている。これまでの因習や慣習は、それが保持される根拠が示されない限りは疑問符を突き付けられ、必要のないものは排除される方向にある。ただしこの流れが全体としてホフマンの言う「自発性」の側面に裏付けられるものだとすれば、それは伝統的な精神分析の持つ様々な慣習や伝統を守る立場(ホフマンの言う「儀式」の側面)からの抵抗を当然のごとく受ける。そして実際にそれは現在の精神分析において生じていると言えよう。
RPは米国、そしてオーストラリアでその勢いを拡大させている。その要因についてMills はいくつかを挙げている。それらは分析的なトレーニングを積んだ心理士が増え、彼らは伝統的なインスティテュートによる教育ではなくより新しいトレンドを学んでいることであり、新しい著作の多くは関係性理論に関連するものであることである。そして関係性理論になじみ深い分析家が主要な分析関係の雑誌の編集に携わるようになっていることなどである。
この動きはいわゆる「関係論的旋回relational turn」と呼ばれ、1980年代のグリーンバーグとミッチェルの著作により先鞭をつけられた(Greenberg,
JR and Mitchell,SA
(1983) Object Relations in Psychoanalytic Theory. Harvard University Pressグリーンバーグ,ジェイ・R.、 ミッチェル,スティーブン・A. 横井公一訳:「精神分析理論の展開」―欲動から関係へ ミネルヴァ書房、 2001/9)。その特徴としてMills は幾つかを挙げている。
第1に、従来の匿名性、受け身性、禁欲原則への批判である。ある意味ではこれは当り前であろう。たとえば自己開示の戒めなどは、これが治療可能性を含んでいる以上は、RPの範疇に入ることになるだろう。従来の精神分析がある決まりの上に成立している以上、それに例外を設けたり、相対的な立場をとる動きはことごとくRPに属することになる。
第2に、RPにおいては臨床家が患者と出会う仕方についての考えを大きく変えた。RPの分析家たちは、互いの学会でも自分自身の心についてより語り、また自分たちをどう感じているかについて患者に尋ねるという傾向にある。つまりよりオープンな雰囲気を醸しているということだろう。そしてそれは患者の洞察を促進するための解釈、という単一のゴールを求めることからは明らかに距離を置くようになっている。
第3に、彼らのスタンスは紛れもなく解釈学的なポストモダンなそれであり、そこでは混じり物のない真実に関する知識、客観性、実証主義などに関して明らかにこれまでとは異なる態度をとっている。
関係論的旋回への批判
さてこれらの関係論の動きにどのような批判の目が向けられているのだろうか?それについて論じるが、最初に一つ非常に明らかなことを指摘しておこう。それは関係論においては患者と治療者双方の意識的な主観的体験がどうしても主たるテーマとなる。しかしそれはそもそもの精神分析の理念とは明白は齟齬をきたしている。フロイトの悲願は無意識の探求であり、それこそが精神分析とは何たるかを定義するようなものであった。
フロイトは言ったのだ。「[精神分析は] 無意識的な心のプロセスについての科学であるhe science of unconscious mental processes」Freud (1925, p. 70) あるいは「無意識こそが真の心的現実であるthe “unconscious is the true psychical
reality” 」
(Freud , 1900. p.
613), ちょっとおかしな例えかもしれないが、ちょうど創業者が残した家訓を前にして、店の経営方針がそれとは異なっていることに戸惑っている一族みたいなものだ。
意識を重んじる関係性の理論は、そもそも精神分析なのか?という問いに対しては、関係精神分析家たちは依然としてなすすべもないままである。ただしこの問題はあまりにも根本的で、そもそも関係精神分析を精神分析の議論の訴状で扱うことの適切さにさえ及びかねないので、この問題は一時棚上げにし、いくつかその代表を挙げたい。