2015年11月25日水曜日

自己愛の観点から見た治療者の自己開示・推敲 (1)

実はこのブログは、今日から新しいシリーズに入る。と言っても全く見た目は変わらないであろう。


自己愛の観点から見た治療者の自己開示 (1)

関係精神分析では、治療者の能動性や自己開示の問題は極めて重要な意味を持ち始めている。(Sherby, L.B. (2005). Self-Disclosure: Seeking Connection and Protection. Contemp. Psychoanal., 41:499-517. Gilbert Cole, G (2002).  Infecting the Treatment: Being an HIV-Positive AnalystHillsdale, NJ: Analytic Press, 2002. 
Sugarman, A. (2012). The Reluctance to Self-Disclose: Reflexive or Reasoned?. Psychoanal Q., 81:627-655.)


 私にとって治療者の自己開示の問題は、精神分析に興味を持ち、分析的な臨床を行い、また分析関係の論文を発表し始めた最初の頃から常に重要なテーマとして頭にあった。治療者が中立性や匿名性の原則を守りつつ治療を行う際、自分に関する情報を伝えることには大きな抑制が伴うことになる。それは通常の日常会話と大きく異なるばかりか、一般的な心理療法とも異なるといっていい。分析的な臨床家はしばしば、通常の会話では起きるであろう自分自身からの応答をいかに押しとどめ、またどのようなときには匿名性の原則に例外を設けて、自己を表現をするかに常に考えをめぐらせていることだろう。
治療者が持ち続ける問題意識はそれにはとどまらないかもしれない。そもそも匿名性の原則は妥当なものなのか。それを遵守しようとしている自分は患者にとってベストな治療を施していることになるのだろうか、などの、より原則的で根本的な疑問を思い浮かべても不思議ではない。
以上のような文脈で私はこの自己開示の問題を考えてきたわけだが、最近かなり以前とは異なる発想を持つようにもなってきた。それは治療者が私の予想を超えて、自己開示を行っているらしいという現状を知ってのことであった。「治療者が匿名性の原則を守りすぎるのはいかがなものか」、という方向から考えることの多かった私が、「自分のことを話しすぎる治療者にどのようにして自制を促すことが出来るのだろうか」」という問題も重要であることに気が付いたのである。そしてそれがどうやら治療者の側の持っている自己愛や自己顕示欲の問題とかなり結びついているらしいと考えるようになった。