2015年11月12日木曜日

精神分析におけるスペクトラム的思考と弁証法的思考(推敲後) (1)

                
私はこの小論において、精神分析におけるスペクトラム的な考え方の代表として、探索的-支持的なアプローチという考え方について紹介し、それからスペクトラム的な思考と比較してより臨床的に有効と思われる弁証法的思考について紹介したい。

従来の精神分析理論は非スペクトラム的である

最初に述べたいのは、伝統的な精神分析理論は、基本的には非スペクトラム的な体系であるということである。それはそもそもフロイト自身の考えに表されていた。フロイトは精神分析的な介入として「解釈 interpretation」を主体とし、彼の言う「示唆 suggestion」を含むそれ以外の(支持的な)アプローチとを区別した。そして前者を純金とし、後者を合金と考えた。このような形でフロイトは、精神分析理論はそれが純粋な形で進められることを、その著作の中で厳命したのである(Freud, 1919)Freud S 1919):Lines of Advance in Psycho-Analytic Therapy. Standard Edition, Vol.17. trans. Strachey J, London: Hogarth Press, pp159-168, 1955. 小此木啓吾 訳(1983):精神分析療法の道 フロイト著作集9 人 文書院 pp127-135.
 しかし後の精神分析的精神療法一般の現実の在り方を見るならば、「解釈」と「示唆」とは多くの場合に混在しているという理解が主流になっていることは、Gill がいみじくも以下のように述べているとおりである。「分析が何をしようと、それは不可避的に示唆に満ちている。Whatever the analyst does is invariably saturated with suggestionGill, 1991)」
Gill, M. M. (1991), Indirect suggestion: A response to Oremland's Interpretation and Interaction. Chapter 10 in Interpretation and Interaction: Psychoanalysis or psychotberapy? by J. D. Oremland. Hillsdale, NJ: The Analytic Press, pp. 137-163.)

その意味で一般の精神療法における介入の在り方は、それが支持的な療法としての色彩を様々な度合いで含むために、まさにスペクトラム的である。そしてここに、精神分析プロパーは非スペクトラム的な介入を旨とし、分析的な精神療法一般にはスペクトラム的な思考が当てはまるという考え方が成り立つ。
 ただしここで何を精神分析プロパーと理解するかについては、議論の余地があるだろう。現代的な精神分析においては「解釈を超えたBeyond Interpretation」関わり(BOSTON PROCESS CHANGE STUDY GROUP2010))が論じられるようになっている。別言するならば、分析において革新的であることは、この厄介なスペクトラム概念を導入することになるのである。
The BOSTON PROCESS CHANGE STUDY GROUP2010Change in Psychotherapy: A Unifying Paradigm, New York, Norton Professional Books (丸田俊彦 訳 解釈を越えて―サイコセラピーにおける治療的変化プロセス,  2011年.東京、岩崎学術出版社)

そのような例として、米国のG. Gabbardが提示した図を示したい。彼は分析的精神療法のアプローチとして介入のスペクトラムを挙げているのである。それは一方に純粋な分析的アプローチとしての解釈を含み、他方の極には勇気づけやアドバイスといった、伝統的な精神分析理論には縁遠いアプローチが存在する。



ちなみに非スペクトラム的なアプローチの立場をとる精神分析家は、ある難しいタスクを負わされているとみていい。それは彼らの非スペクトラム的な、解釈中心の介入をいかに正当化するかということである。それは患者の病態レベルに応じた介入であろうか?すなわち神経症レベルの患者に限って解釈中心の分析治療を行い、精神病やボーダーライン水準の患者にはそれを行わないと主張するのだろうか? しかし神経症圏の患者に、スペクトラム的な治療、すなわち支持的なアプローチを含んだ治療が無効ないしは有害であるというエビデンスははたして存在するのであろうか?私はそれを知らないし、精神分析においてそれを施さないおそらく最大の根拠は、それが「分析的でない」ということになろう。そうなると治療を「分析的」に行わなくてはならないことの根拠が今度は問われることになり、ますます話は錯綜してくるのである。
私自身は分析的な精神療法を行っており、そこで用いる介入は極めてスペクトラム的と考えているので、幸いこの問題に頭を悩ませることはない。

病態の理解に関するスペクトラム

私にとってのスペクトラム的な思考とは、物事をカテゴリー的にではなく、ディメンション的に考える際に常に働いている。ディメンション的、というのは物事をAかBか、という判断に従って分類するのではなく、それがどの程度A的で、どの程度B的かと考える方針である。それをもっぱら行っているのは、クライエントの病理の理解の際である。私は頻繁に、「このケースにはどの程度トラウマ要因が絡んでいるのか?」「どの程度ボーダーライン心性が見られるのか?」「どの程度発達障害の可能性があるのか?」などの見方をする。また精神科の外来では、患者に「ここ数日の抑うつ気分を1から10までの数字の中から選んでください」、とお願いしたりする。彼らはそのような時、たいてい「そんなことは無理です」という反応は示さない。じっくり考えて「そうですね、45の間くらいです」 などと、慎重な「目盛り合わせ」をしたうえで数字を掲げてくれるのが普通だ。患者もまた自らの病態レベルや苦痛の度合いに関して、結構スペクトラム的な思考を働かせているようだ。もちろんそれが客観的に正しい数値か否か、という問題ではない。あるグラデーションの中から特定の位置を指定する、という思考を、治療者だけでなく患者も持つことが多いということを示す。もちろん彼らもしばしば是か非か、善か悪かという「カテゴリー的」な思考の影響下に置かれることは少なくない。