2015年11月11日水曜日

心理療法の初学者に向けて(最終稿) ③



常に心の中で「不測の事態」に備える

初心の治療者の経験不足が、特に治療に不利に働いてしまうことがある。それがいわゆるイレギュラーな事態、通常は起きないような出来事が生じた場合である。もっとも冒頭に述べたように全くの未経験の段階では、人は「何がわからないかがわからない」状態に置かれている。初診の治療者にとっては、クライエントとの間に起きることはことごとく予想外、イレギュラーな事態と言えるかもしれない。その場合とりあえずは思いついた手段を手当たり取ってみる、という方針に従う以外にないかもしれない。学習とは本来そういうものであり、それが最も効果的であるという考え方も成り立つ。白紙の状態でコンピューターを与えられた子供が、全くの試行錯誤でその世界を探索しているうちに、誰も教わらずにエキスパートになってしまうような例は実は多い。ピアノの鍵盤を前にしたサバン症候群の子供が独学でピアノが弾けるようになってしまうのも同じような例である。
 しかし心理療法に関わるものが、同じように試行錯誤でそのやり方を学んでいくわけにはいかない。なぜならそこにはクライエントという生身の人間が関与し、最初から援助を求めているからだ。クライエントとの間で試行錯誤を行うことには倫理的な問題が関わってくるとさえ考えてよい。しかしだからといって、クライエントの対応に窮した治療者が、いきなり心理療法の教科書を開いたり、スーパーバイザーに電話を入れてお伺いを立てたりするわけにもいかない。臨床場面はいつも待ったなしなのだ。
 そのように考えると、治療者がおき得るべき不測の事態にどう対応すべきかをあらかじめ考えていることは決して無駄なことではない。自動車教習が学科から始まるように、心理療法にもある種の座学が必要であるとすれば、どのような不測の事態が生じる可能性があり、どのような対応策があるのかを考えさせるような内容が望まれるであろう。
「例えばクライエントさんから戴きものをしてはいけない」「クライエントさんとの身体接触はご法度である」「クライエントさんからの個人的な質問には答えてはならない」などの、「~してはならない」という警句は不思議と初心の治療者の中にはインプットされている。これらの警句はおそらく成書で学んだり、授業で聞いたり、スーパーバイザーから言われたり、という様々な経路で治療者の耳に残っているものだ。しかしいざ具体的な例になると、初心の治療者はたちまち当惑してしまうものである。
ある大学院生の「学生カウンセラー」は、あるクライエントに「先生と一緒に食べようと思いました」とケーキを持ち込まれた際に、つい付き合って食べてしまったという。そして深刻な顔をしてバイザーである私のもとに「大変なことをしてしまいました」と報告をしに現れた。「クライエントから物をもらってはいけません」という言葉が頭に残っていたからであろうか。ちなみにその院生さんは社会経験を積んだうえで心理士を目指して入学した人である。社会的な常識は十分ある人だ。そのような人にとってもやっていいこととタブーなことが決まっていると考えられる傾向にあるのが、この心理療法というものである。
このような場合どうするのか、はいくらでも心の準備をできることである。ケーキを食べるのかどうかについて何を基準に判断するのか、その根拠は何か、そのもらい物の「市場価値」がどう影響するのか、あらかじめ戴きものをしないことになっていると伝えた結果なのか否か、その職場のポリシーはどうなっているのか、戴きものを断った際に治療関係にどのような影響が及ぼされるのか・・・・。

ちなみに私は不測の事態について考えるための本を研究会の仲間と編んだことがある(岡野、ほか、2007)。「心理士が仕事が終わり帰宅をしようとしたら、先ほどあったクライエントさんが門の所で待っているのが見えた。どうしたらいいか?」「目の前でクライエントさんが刺青を見せようとしてTシャツを脱ぎ捨てた。どうすべきか?」「クライエントに散歩に誘われた。どう対応をすべきか?」「隣の面接室から、大きな声が聞こえた。どうすべきか?」などなど。このような「不測の事態」の実例を通して、あらかじめシミュレーションをするための機会を提供している。あえて一つの答えを提供することなく、いくつかの考えの筋道を提供することに心を注いだ本である。
心理療法のプログラムがまだ座学である内に、このような本を読んだり、実際の臨床例をもとにディスカッションすることでイニシャルケースを持つ際の覚悟は結構出来上がるのではないか、と考える。そこでの「基本理念は、クライエントを前にして実際に起きてしまってから考えるよりは、起きる前に考えておこう。」ということになろう。

最後に ― 倫理について学び、後は自分で判断せよ

30年前に初学者であった私に告げたいことの最後は、倫理についての問題である。私がこの話をその時に聞いていたら、ずいぶん目の前が開かれていただろう。それは精神療法に唯一の正解があるとしたら、それは常に治療場面において倫理的な方策が選ばれるべきである、ということだ。
 精神療法の技法としては様々なものがすでに存在するし、これからも編み出される可能性がある。しかしこれらの試みを底辺で支えているのが倫理の問題なのである。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つのである。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積んだ治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?あるいは治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
このような問いを発しただけでも、実は倫理の問題は心理療法を行うことそのものの中で最優先されるべき問題であることがわかるだろう。
もちろん何が倫理的に正しいかを、実は誰も教えてくれない。ただ一つの倫理的に正しい方針というものもない場合が少なくない。誰にとって倫理的か、という問題もある。だから「倫理的に正しい道を選ぶこと」は決して容易ではない。
倫理的な問題の例として私がしばしば掲げるのが、次のような例である。こんな状況を考えよう。

治療者がクライエントの陥った問題について話を聞いて行き、「私にも同じ体験があるからわかりますよ。」と告げる。

治療者の自己開示である。これが治療的に持つ意味は、文脈によりさまざまに異なる。精神療法のテキストに「自己開示はすべきでない」と書かれているから間違いである、というわけではないし、あるスーパーバイザーに「自己開示は遠慮なくすべし」と言われていたから正しい、というわけでもない。それが倫理的に肯定されるべきか、ということに従ってその是非が判断されなくてはならないのである。
 倫理的に正しい、とはすなわち「クライエントにとって治療的な意味を持っている」ということである。たとえば治療者も同じ体験を持っているということを知ることで、治療者から与えられた共感がうわべだけのものではないと感じられたとしたら、この自己開示は肯定されるべきであろう。しかしクライエントが「私の話をしているのに、自分の話を割り込ませないでほしい」と感じたとしたら、それはむしろ非治療的である可能性が高いかもしれない。もちろん現実はこれほど簡単ではなく、自己開示は様々なインパクトを有し、治療的な要素も非治療的な要素も持ち合わせるため、一概にその是非を判断できないが、今度はそのインパクト自体を治療場面で話題にするという方針も開かれていく。もしこの倫理の問題を常にもっとも優先順位の高いものとして頭に描いておくと、どのような学派の理論を学んでいようと、自分を見失わずに済むであろう。
 
すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野、2012a,2012b)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することは到底できなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 2007年に作成された米国精神分析学会の倫理綱領には、分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、クライエントを利用してはならないこと、クライエントや治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている(Dewald, et al 2007)
 これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。このように考えると、いたずらに精神分析の教えに従うべきではないということを、分析学会の倫理綱領自体が伝えているようで興味深い。
さて話を一般的な心理療法に戻そう。治療者の振る舞いの何が倫理的に正しいかは、テキストはなかなか教えてくれないのであるが、その理由はそれがあまりにケースバイケースだからだ。「私にも同じ体験があるからわかりますよ。」という先ほどの治療者の簡単な自己開示でさえ、状況によっては治療的にも非治療的にもなる。それを場合分けをして事細かに説明すれば、それだけでテキストが一冊出来てしまう。
 では倫理について考える際、何が判断の導き手になってくれるかといえば、それは最後には治療者自身の感覚としか言いようがない。治療者が自分は社会の中で他人と平和に暮らしていく能力を持っていると感じるのであれば、彼は物事のよしあしを判断できる倫理観を備えていると判断されよう。するとクライエントとの関係で自分が発する言葉や振る舞いが、自分の側の願望を満たすためのものか、相手のためのものなのかは、ある程度は直感的にわかることだ。なぜ「ある程度は」と但し書きをするかと言えば、相手の言動がどこまでその人自身の都合によるものか、自分のためを思ってしていることかは、なかなか判断がつきにくいことだからだ。実際相手のためを思ってしたことが誤解されることはいくらでもある。あるいは自分の都合でしたことを、逆に感謝されてしまうこともある。しかしその人との一定期間における関係性の中で、相手に利用されている感じ、騙されている感じを抱く場合、そこにはかなり信憑性がある。
クライエントと治療者の関係の中で、治療者の逆転移に影響されたかかわりが生じる時、おそらくそれに先に気が付くのはクライエントの方であろう。「治療者の何かがおかしい気がする。」「もうあまり信用できないような気がする。」そう感じたクライエントは治療者に問いただすこともあるかもしれないが、黙ってその治療者のもとを去ってしまうことも少なくない。治療者の側はスーパーバイザーに指摘されるまではそれに気が付かなかったりする。そのような事態をなるべく防ぐために治療者に必要なのは、自分がクライエントの立場ではどうしてほしいか、何をしてほしくないかをシミュレーションすることである。それが治療場面での倫理性について考えるうえでかなりの助けとなる。
 上述の「私にも同じ体験があるからわかりますよ。」という言葉は、自分を目の前のクライエントの立場に置いて聞いてみた場合に助けになると感じられるならば、倫理的な対応である可能性がある。ただしそれは目の前のクライエントがあなただったら、の話である。そのクライエントがもし以前に自己開示に不快な反応を示したとしたら、その部分を差し引いて考えなければならないのは当然だ。しかしほかに判断の材料がない場合に、自分が出来るだけ相手の立場に感情移入をした結果、言われたり行ってほしかったりする介入は、おそらく倫理的である可能性がある。
この最後の部分は極論かも知れない。しかし初心の治療者が最初に陥る極論や「刷り込み」としては、決して悪くないものと考えている。

(文献)
岡野憲一郎 (2003)自然流精神療法入門 星和書店
岡野憲一郎ほか (2007) 女性心理療法家のためのQ&A 星和書店 
Dewald PA, Clark RW (Ed.) (2007) Ethics Case Book: Of the American Psychoanalytic Association  American Psychoanalytic Association. 
岡野憲一郎(2012a)精神分析のスキルとは?(2)精神科 21(3), 296-301. 
岡野憲一郎(2012b)心理療法/カウンセリング 30の心得』. みすず書房.