2015年11月10日火曜日

心理療法の初学者に向けて(最終稿) ②


仮の治療目標を「クライエントの孤独感を和らげること」と設定してもいい

海図のない航海のような心理療法に携わる治療者が目標とするものとして、もう一つ挙げたい。それは「クライエントの孤独感を癒す」ということである。
そしてこれもまた上述の「理解してもらうこと」とも通じる。以下の内容は、「心理療法家の30の心得」(岡野、2012b)の第23項で述べた内容と大幅に重複することをお断りしたい。
「クライエントの孤独感だって?そんなものを扱うためにわれわれは心理療法をしているのですか?」という人もいるかもしれない。しかし考えてもみよう。私たちの活動の大半が、仕事であれ趣味であれ、自分の孤独感から逃れるための活動だったりするのだ。
 もちろん逆に孤独に進んで逃げ込みたくなる人もいるかもしれない。日常の仕事や学校生活における人間関係に疲れて、それらから一時的にでも退避したくなる人たちだ。しかし彼らでさえ長い週末や長期の休みに入れば、あるいは長期間独身生活を続けていれば、配偶者が長い里帰りや単身赴任に出かけてしまえば、あるいは孤独な老後を迎えたならば、心のどこかに空虚さを感じ、それを埋めようと必死になるものである。
 さらに私たちの孤独感は、見かけ上は孤独ではないような状況でも体験されるから厄介である。人生の岐路に立たされて深刻に迷い苦しんでいるとき、それを聞いてくれるはずの配偶者や主治医の無理解を痛感した場合、最悪な孤独感が襲ってくるかもしれない。「一緒にいるのに孤独」。無理解で別の世界にいるような配偶者といると、一人でいるよりもっと孤独に感じる、という人は多い。
 ある女性のクライエントは職場で深刻なモラルハラスメントを体験したそうである。そして帰宅してそれを夫に話すと、彼はこう言ったという。「そう、よかったじゃない。キミはこれまであまりそういうつらい体験をしたことがなかったんだから。いい人生勉強だよ。」その体験がそのクライエントにとって結果的に人生勉強になったかは別として、少なくとも彼女は夫の言葉によって深刻な孤独感に突き落とされたことは確かだったのである。
 この孤独感の問題が、「理解してもらうこと」の先に、あるいは奥にあるという点は分かっていただけるであろう。そしてそのような人たちにとっては理解を示してくれる治療者の存在は、この苦しみの一部を癒してくれる可能性があるのである。
なぜ理解してほしいのか。それは苦しみを抱えている人の多くが、その苦しみを誰にも理解してもらえないことの孤独感が背後に存在しているからである。
クライエントの持つ孤独感については、別の著書(岡野、2003)でもある程度紙数を割いて述べたことであるが、ここでも少し繰り返しておこう。人生の上である種の問題に直面することで味わう苦痛のかなりの部分は、実は孤独感に関係していることが多い。それはその問題の特殊性、それを体験した人の気持ちをわかってもらえないままで過ごすことの孤独である。その時もし目の前の誰かが聞いて、「それは大変ですね」と伝えたとしよう。すでにその孤独感の一部は癒されている。理解されることはもう一人の自分を作ることになり、それが私たちを孤独から多少なりとも救ってくれるのである。孤独とは、常に誰かに付き添ってもらうことで和らぐとは限らない。週に一度しか会わない治療者との間でそれが癒されることもあるのだ。
 もちろん他人があなたの問題を本当の意味でわかってくれているとは限らない。「どうしてそんなことで悩むの?」と言われてしまうかもしれないし、その人はもしかしたら腹の底であなたの不幸を嗤っていないとも限らない。だから人に話すことは難しいのであるが、それでも私たちは悩みを抱えた場合に、それを一人で抱え続ける代わりに、誰かに話すことを選ぶことが多い。時にはペットの犬に向かってさえ私たちは話しかける。「今日ね、ひどいことをお客さんに言われたんだよ。どうしてお客ってあんなに上から目線で店員に文句を言うんだろうね?」それを言われた犬はもちろんわけがわからないが、一生懸命ご主人様の気持ちを読もうとその目を見つめる。それで少しは気持ちが和むだろう。少なくとももう「一人」ではないからである。
 このように考えると私たちがなぜ感動を思わず言葉にする傾向があるのか、時には独り言にしてまで気持ちを表現するかが理解できる。楽しいことがあった時はそれを話す相手がいない場合に、つらいことがあったときはそれを理解してくれる人がいない場合に、私たちは孤独を感じ、それを耐えがたく思うのだ。独り言でもいいからそれを想像上の誰かに伝えることで、その孤独感を和らげるのである。
 治療者が毎週ないしは隔週にクライエントと会うたびに、そのクライエントが少なくとも孤独感からは救われ、生きる勇気を少しだけ与えられて帰っていくとき、そのことを治療者があまり実感できないとしたら、それはなぜだろうか?ひょっとしたら治療者が「幸福すぎる」からかもしれない。そのようなことでも自分の存在が他人の役に立っているということが信じられないのである。あるいはクライエントの苦しみのレベルに波長を合わせることが十分にできていないと感じるからかもしれない。それでも治療者は結果としてそれなりに役に立つことができる場合があるとすれば、そのことはおそらく感謝すべきことなのかもしれない。
先に述べたとおり、初心の治療者は、クライエントの話を理解し、彼が「理解してもらえた」という感覚を持つことをとりあえずの目標と定めてよい。しかしもし「どうして理解することに意味があるのだろう?」と疑問に思ってしまった治療者への答えとして私が用意するのが、この孤独感のテーマを思い浮かべてほしいのである。