2015年11月30日月曜日

精神分析におけるトラウマ理論 推敲(1)


精神分析におけるトラウマの理論の発展は、ある意味では時代の必然と言える。関係精神分析におけるトラウマの議論のみならず、クライン派によるトラウマ理論も提出されている。ガーランド編 松木邦裕訳トラウマを理解する 岩崎学術出版社、2011Caroline Garland ed.Understanding Trauma: A Psychoanalytical Approach Karnac Books, London, 1998)
何か聞き覚えのある本だと思ったら、何と私は書評を書いていた!!!2011年のことだ。さっそく思い出してみよう。 
書評:「トラウマを理解する―対象関係論に基づく臨床アプローチ」(ガーランド・C著/松木邦裕監訳,岩崎学術出版社)
 本書を非常に興味深く読んだ。トラウマの問題については、これまでは精神分析はその扱いに一歩遅れているという観があった。現代のフロイト派やクライン派がそれを本格的な精神分析の文脈にどこまで取り入れているかについて、評者はこれまで興味を持ってきた。本書はそれに対する格好の答えを提供してくれている。 
 
本書は1990年代にタビストック・クリニックに創設されたトラウマに関するユニットのメンバーのひとりであるキャロライン・ガーランドが編者となり、8人の臨床家が執筆したものである。本書の構成は、第Ⅰ部「概論」、第Ⅱ部「アセスメントとコンサルテーション」、第Ⅲ部「精神分析的心理療法による治療」からなり、全体が13の章に分かれている。そこには「なぜ精神分析なのか?」「ヒューマンエラーとは何か?」「症例への介入の実例、」「トラウマとグループ療法」などの重要なテーマが並ぶ。
 本書の特徴は一貫して英国のクライン派の立場から綴られていることである。その徹底ぶりは注目に値し、そのような路線でもトラウマの治療論が十分に成立することを教えてくれている。またそこではトラウマを治療することとは、それをトラウマとして成立させている生育歴や過去の対象関係を扱うことであり、そこから生じる転移とその解釈が主たる技法であるという主張がなされる。
 少し内容を要約してみる。トラウマとは、フロイトのいう刺激保護障壁が破られることにより生じ、クライン的にはそれにより外的な出来事が、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることである。その最悪なものとは、保護的な良い対象群の失敗による死やその切迫による個人の壊滅ということだ。さらにビオンの視点からは、トラウマとはアルファ機能の働きが打ちのめされ、含まれている刺激の質と量をコンテインして消化することができなくなって破綻したとき生じる事態ということになる。そして実際のトラウマを受けることは、早期の対象関係上の問題を呼び起こすことになるという前提のもとに治療が行われる。
 実際の介入を知る上で、「第
4章 予備的介入:4回からなる治療的コンサルテーション」は非常に参考になる。この章では症例Aに対する4回の面接の記録が提示されている。そこでは患者の中で外傷により切り離されていた自らの破壊性を「再びつなぐ」ことの重要性と、治療者がそのために保障を与えることへの戒めが強調されている。4回の面接といえども転移についての解釈が重要な位置を占めている点も興味深い。また限りあるセッションを持つことは、失ったもの、人や万能感をワークスルーするという意味をも持つという。
 以上本書の内容を簡単にまとめてみたが、精神分析の立場から真摯にトラウマについて考えるためには、本書はこの上ないリソースを提供してくれることを信じる
トラウマについての分析的な著作としては、ストロローのそれがあった。これも書評を書いたことがあるぞ。引っ張り出してみよう。

(書評) ロバート・D・ストロロウ著 和田秀樹 訳
「トラウマの精神分析 自伝的・哲学的省察」

本書はRobert D. Stolorow 著“Trauma and Human Existence. Autobiographical, Psychoanalytic, and Philosophical Reflections. (Routledge, 2007.) の全訳に、翻訳者の著者との対談、および本書の解説が付け加えられたものである。原著は62ページという非常にコンパクトなものであるが、本書は121ページのそれなりに読みごたえのあるものになっている。
 本書は学術書というよりはエッセイ風という印象を与えるかもしれないが、扱っているテーマは非常に重く、かつ奥が深い。著者ストロロウの主張を集約すれば、トラウマは必ず関係性というコンテクストの中で生じ、私たちが孤独で死すべき運命であるという現実を突きつけるということである。それは「…… 命は有限であり、実存的には脆弱であるという事実を覆い隠すことで、われわれを防護してくれる鎮静的な錯覚というべき、もろもろの信念を粉々に打ち砕いてしまう」(p. viii)のである。この主張を、ストロロウは最愛の妻を失ったことによる想像を絶するほどのトラウマ体験をもとに、ハイデッガーやコフートの理論を駆使して論じていく。自己の体験と理論は、いわば縦糸と横糸のごとく彼の主張を織りなしていくのである。
 簡単に本書の構成を紹介してみよう。
1章「情緒生活のコンテクスチュアリティ」で、著者は自らの精神分析理論を、欲動driveではなく情動affectivityを重んじる立場であるとし、情動はコンテクストの中に存在し、他者との相互性を前提とする、と明言する。その立場は、フロイトにより始められた精神分析の基底に流れる「孤立したisolated mind」という考えとは明確に区別される。そしてそれが、19912月の妻ダフネの死をきっかけに始まった精神的な遍歴の中で獲得した理解であるとする。この章ではストロロウとコフート理論との深いつながりが改めて伺える。第2章「情緒的トラウマのコンテクスチュアリティ」においては、情緒的なトラウマは、それを理解して扱ってくれる人が不在であることに由来し、それ以後変更不可能なオーガナイジング原則が作り上げられてしまうとする。そしてフロイトは「孤立した心」の理論に立って、トラウマを欲動という概念によってのみ説明したが、D. ウィニコットやM. カーンはそれとは異なる見解をすでに有していたという。
3章「トラウマの現象学と日常生活の絶対性」という章は、ダフネの死を発見した朝の記述に始まる圧倒的な暗さをたたえている。彼はトラウマを体験することは、もはや「正常な人」と世界を共有することができないような感覚が生まれたという。そしてトラウマは、愛する人がいつ何時死ぬかもしれないという現実を自覚することにつながり、その孤独を理解してくれるのは、同様のトラウマを体験した人でなくてはならず、それがコフートの言う双子転移の意味することである、という。第4章「トラウマと時間性」では、トラウマを抱えたいくつかのケースを断片的に提出しつつ、表題のテーマに対する考察を進める。フロイトは無意識の無時間性を説いたが、本当に時間を失っているのはトラウマ体験であるということを、著者は自らのトラウマ体験を開示しつつ論じている。自分であるという感覚は、自分が体験を時間=内=存在として持つことであり、トラウマはその統一した自分という感覚をも粉砕するという。第5章「トラウマと『存在論的無意識』」において、著者はハイデッガーの理論に由来する存在論的無意識について論じる。
6章「不安,本来性とトラウマ」は本書の中でもっとも長い章であり、また著者ストロロウの至った境地を雄弁に伝えている。彼はトラウマを、フロイトの外傷性不安と信号不安を両端とするスペクトラムで捉え、そこにコンテクストの概念を導入する。そしてハイデッガーの不安の概念が、死へ=臨む=存在に基礎を置いた不安であるとする。それは外傷により私たちがいやおうなしに直面する徹底した孤独であったという。それをストロロウは、元妻を亡くしたときの、誰からも置き去りにされたような徹底した孤独として表現している。第7章「結語 ― 『同じ闇の中の同胞』」では、この書が担った二つのテーマが繰り返される。すなわち情緒的トラウマのコンテクスト性であり、それが抱えられ、統合されるような相互主義的なコンテクストを欠いたならば、永遠にトラウマとなりうるということである。
 巻末に収められた「ストロロウと訳者の対話」は本書の中でもっとも楽しめる部分の一つでもある。翻訳者和田氏は15年来のストロロウの弟子であるが、その立場から著者の個人的なバックグラウンドについてさらに詳しく聞き出し、ストロロウの理論構成に一層の立体感を与えることに成功している。また同じく巻末の「解説」も読者にとっては非常に有難い章である。これはともすれば難解なストロロウの理論を噛み砕いて説明している。また著者のくわしい経歴について、日本語で読める数少ない貴重な資料といえる。
 私事ではあるが、翻訳者和田氏と評者(岡野)は留学時代を通して旧知である。氏がはじめてストロロウと接したという1993年のカンザスシティでの講演に評者も同席していた。その後氏が自己心理学者として自らを形成していく過程を垣間見ていた立場としては、特別な感慨を持って本書を読んだ。和田氏は精神科医として活躍し、マスコミにも頻繁に登場する著名人であるが、このような緻密な学術的作業を積み重ねる分析学者でもあることは案外知られていない。
 また本書で扱われたテーマに対する評者のかかわりについても触れさせていただきたい。ストロロウと同様に死や人の限りある運命について扱った分析家にアーウィン・ホフマンIrwin Hoffmanがいる。その理論に沿って、評者も現実という概念についての考えを深めたことがある(岡野憲一郎:「中立性と現実」岩崎学術出版社、2001年)。そして「現実」とは、自分がいつ死ぬかもしれない存在に直面することでもあり、その意味では「過激な現実」は外傷的ですらあるという理解に至った。これは本書でのストロロウの主張に近い。ただし違いは、評者が著者のようなトラウマを経験したことがないことであり、その意味では著者の言葉に見られるような重みを欠いているということである。ストロロウの言に従えば、評者は「同様のトラウマを体験した人」ではなく、真の意味で共感することはできないのであろう。
 哲学と精神分析と現実の体験との統合を遂げた本書の価値はきわめて高い。だがどれほどの読者がそれを理解し得るかは未知数である。出版界が不況にあえぎ、舌触りのいい文章しか受け入れない傾向のある現代にあって、このような重厚な内容の書もまた広く受け入れられることを切に願いたい。
  
(岩崎学術出版社、2009, 121, 2,500円+税)