2015年11月29日日曜日

関係精神分析のゆくえ(推敲) 2


RPに対する批判は、ほとんどは「外部」から来ている(Eagle, 2003; Eagle, Wolitzky, & Wakefield, 2001; Frank, 1998a, 1998b; Josephs, 2001; Lothane, 2003; Masling, 2003; Silverman, 2000など)。つまりRP以外の学派からの批判である。しかし例外として最初の批判が「身内」から生じたのは周知のとおりだからだ。RPの動きの始まりとなる「精神分析理論の展開」の共著者の一人であるグリーンバーグはすでに1993年の著書で、「Oedipus and Beyond エディプスとそれを超えて」(Harvard University Press,1993)で、関係論が欲動の問題をないがしろにしていることに警句を発しているからだ。これは彼が先鞭をつける形となったRPのその後の展開で、またフロイトの欲動モデルは十分に否定されてはいないという主張が中心となり、果たして「
欲動なき精神分析drive-free psychoanalysis」は可能なのかという根源的な問題を提起している。これは欲動モデル、と関係モデルというある意味では本来分けられないモデルを相容れないものとして提起した以上、必然的に起きてくる議論に先手を打ったという感がある。
しかし欧州の精神分析においては、関係性の旋回を、著しい退行であり、パターなリズムであるという激越な批判もある。(Carmeli,Z, Blass, RB (2010) The relational turn in psychoanalysis: revolution or regression? European Journal of Psychotherapy & Counselling, 12:217-224)関係論的な旋回は伝統への挑戦である。これまでの精神分析における伝統や慣習はどうなるのか?分析家の持つ権威はどこに行くのか?という声が聞こえてくるが、これは英国のクライン派やフランスのラカン派を生んだ伝統を重んじる欧州の風土からすれば、RPに対してほとんどアレルギーに近い反応を示すのもわからないではない。これらの批判はある意味では明確でもあり、またその立場の違いは最初からある程度予想されたものである。しかしより微妙な文脈で行われる批判にはそれだけ注意が必要と思われる。
その中でここではRPに対して詳細な批判を行っているMills の論文を手引きに、この学派で現在何が生じているかを論じてみよう。(Mills, J (2005). A Critique of Relational Psychoanalysis. Psychoanalytic Psychology, 22(2), 155-188. 2006
Mills RPに対する批判の中で筆者が極めて妥当と思われる点を挙げたい。それはいわゆる「間主観性」の概念に向けられたものだが、それは「精神の構造は他者との関係に由来する」(RPのホームページによる)とするRPの方針そのものに向けられたものとも言えるだろう。間主観性の概念は特にジェシカ・ベンジャミンとロバート・ストロローの二人による精力的な著作により精神分析に導入されたが、その中でもストロロー、アトウッドらの概念は存在論的な議論であるという。そして間主観性を一種の場、ないしは第三主体(オグデン)としてとらえる。彼らの問題は、それが個を埋没させる傾向にあるという。「体験は常に間主観的な文脈にはめ込まれている」(Stolorow & Atwood, 1992, p. 24, italics added)
著者はこの間主観性理論について、例えばOgden (1994)の主張を引き合いに出す。「分析過程は三つの主体の間の交流を反映する。一つは分析家、もう一つは日分析者、そしてもう一つは第三主体であるThe analytic process reflects the interplay of three subjectivities: that of the analyst, of the analysand, and of the analytic third (p. 483)」そしてそもそも関係性が主体に影響するとしたら、一人一人の行為主体性agency はどうなるのだろうか、と問うのだ。ここで少し難解だが随伴現象epiphenomenon という概念が引き合いに出される。(随伴現象epiphenomenonとはウィリアムジェイムスが使い出した言葉で、要するに心は脳の随伴現象であり、それ自身は何も他に影響を及ぼさない、という説。随伴現象説とは心の哲学において、物質と意識の間の因果関係について述べた形而上学的な立場のひとつで、『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。←ウィキペディアより) 間主観性も結局は随伴現象である。それなのにどうしてそこまでに決定的な影響力を持たせてしまうのだろうか、というのがミルズの批判の骨子である。「もしシステム、つまりは関係性が個人を支配するのであれば、個人の自由、独立、アイデンティティーはどうなるのだろうか?」(ミルズ)とも問うており、これが本質的な問題提起ともいえる。
 ジョバチーニGiovacchiniは、間主観性論者によれば、「個というのは関係性の中にいったん入りこむと、陽炎のごとく消え去ってしまうかのようだ」、といういい方すらしている。関係論者は、そんなことはないというが、結局は関係性というものに従属してしまう、といういい方はするのだ。
ちなみにここで筆者の理解を差し挟めば、ちょうどRPは、「無意識が人間を支配する」というフロイトの考えと似たようなことをしようとしているのではないか、と批判されている形になる。フロイトを批判する人は、彼のリビドー論が、無意識という装置の中で生じていることがその人を支配している、というニュアンスを発していることに反発していると想像する。ところが今度はRPは、関係性や第三主体 the third にその「装置」的な何かを感じる、というのではないだろうか。単なる随伴現象なのに、ということらしい。このRP批判とフロイト批判がパラレルに考えられるという事情は、結局は関係性のマトリックスないしは第三主体もフロイトの無意識も、結局はそれがあまりに複合的で不可知的であるという問題に帰結するのではないか、ということだ。