2015年10月31日土曜日

母親の自己愛 (2)

日本の母親について語る上での前置きを書いているわけであるが、このような事情を、母親が娘に向ける視線に当てはめて考えていただきたい。母親は上から下まで娘を眺め、様々な細部に気が付き、気になる。心配にもなる。しかしその娘は自分の一種のコピーでもあり、ライバルともなりうる存在なのだ。娘の中に見る様々な「ちゃんとしていない」ことが目につくであろう。それが母親の中に一種のアラームを鳴らす可能性がある。
さてそれだけで日本の母親が子供に対して過干渉で、あらゆる「ちゃんとしていない」部分を口うるさく訂正しようとするはずだ、と結論付けるつもりはない。考えてみれば同様の性質は娘にもあるだろう。娘も自分の「ちゃんとしていない」部分が気になるのであれば、同様のこだわりを治すことになり、問題がない。母親にとって気になるような娘のシャツの小皺が娘自身にとっても気になるのであれば、両者の考えは一致するはずで、問題がないはずだ。それに女性のこだわりは基本的には「巣作り系」のこだわりだから、住居を住み心地の良いものにするという意味では合理的でわかりやすく、母娘が同じ方向を向く可能性が高い。(「巣作り系」のこだわりについては省略するが、結局女性がキッチンのシンクを磨き上げなくては気が済まないのは、巣をきれいにするという合理性に基づいているということだ。ある鳥は巣を極めて几帳面に作り上げるが、それをヒントにした命名だ。男性のヘンなこだわりとはわけが違う。男性のこだわりは「アスペ系」とでも言えるだろうか。)
さてここで最大の問題は母親が自分のこだわりや願望と娘のそれとを混同するというプロセスだ。これ自体は実はこだわりや「ちゃんとする」傾向とは別物として存在する。どんな例でもいいのであるが、田房永子作、「母がしんどい」の中から取り上げる。
 母親は娘がピアノを習いたいだろうと思う。実はそれは娘からは全然来ていない願望だ。ただ自分の小学生の娘が何か習い事をしているイメージを思い浮かべ、「それがいい」、と思い込む。それ自身は実に些細なきっかけによる場合が多い。近所の奥さんが「うちの娘がピアノに通っていて・・・・」というのを聞いて、なぜかそれを自分の娘に被せて考える。自分の描く娘像にピッタリ来てしまう。するとピアノを習っていない娘は「ちゃんとしていない」ような気がする。そこで正常な母親なら「でもそれって、私の思い込みにすぎないのよね」となる。しかし「しんどい母親」はいつの間にか「娘もそれを願っているはずだ、いや願わないことは許せない」と考えるようになり、強引に「ヤ●ハピアノ教室」に連れて行く。「今日からあなたはピアノを習うのよ。」娘の目はテンになる。「そんなこといきなり言われたって…」ところがそこで漫画では決定的なコマが入る。しんどい母親の目が「ギン!」と光り、一瞬恐ろしい形相になるのだ。「ギン!」である。それを目にした娘は、逆らうと母親に大変な目に合う、場合によっては(精神的に)殺されると脅される。これでは従わざるを得ない。そして強制的に通わされたピアノ教室で、娘は不幸にして、ピアノを好きになれない。ピアノの才能があるなら、都合よく好きになれるかもしれないが、たいていの場合はそうではない。その一方で「しんどい母親」の心の中では、「あの子はこれまでためていたお年玉でピアノを買いたいはずよね」と、娘の口座から数年分のお年玉を勝手に引き出して、ピアノを注文してしまう。(娘の目は再びテンになる。)そしてピアノに触ろうともしない娘に言い放つ。「あんたっていつも、モノを大切にしないんだから。」
この例はピアノだけについてであるが、母親はこれをあらゆることについて娘に押し付けていく。そこで一貫して起きることは「自分の娘に関する願望」を「娘自身が望んでいるもの」に作り変えてしまう、というプロセスだ。これは通常は起きないことである。自分が望むことを他人に簡単に押し付けることができれば、これほど便利なことはない。しかしその他人もまた意志を持っていて、同じようなことを自分にしようとさえしているのだ。しかし唯一起きる可能性があるのは、まだ自分を精神的身体的に100%頼っている存在、すなわち子供に対して行う場合である。ひと睨みすれば、子供は言うことを聞く。生殺与奪の権は母親に握られているからだ。母親のナルシシシズムはここに極まれり、というわけである。
 成長した娘は母親から離れたいと思う。しかしそれは容易には実現しない。一つには強烈な罪悪感。自分という自由に支配することができる存在を亡くした母親がいかにさびしい思いをしなくてはならないかは、手に取るようにわかるのだ。そしてもう一つは自分自身の寂しさ。不幸にして自分でものを決めるという機会を与えられてこなかった。いきなりカンガルーの母親の袋から出されても、独り立ちすることへの耐性がまだできていない。そしてそのことをしっかり観察しているしんどい母親は、「ほらね、ウチから出ていくなんて無理なことがわかったでしょ?あなたはお母さんなしでは生きられないのよ。」と言うのだ。
同様なことが息子については起こりにくいのは、結局母親は男性についてはシロートだからということだろう。その生態がよくわからないままに、どこかに消えてしまうのだ。「ギン!」とやっても結局は振り切って行ってしまう。すると脅される側に立たされかねないために、母親は息子を支配することをあきらめるのだ。しかし「ギン!」が効く息子であれば、話は別である。多かれ少なかれ娘と似たようなプロセスが待っているかもしれない。すると今度は息子の結婚相手、嫁がしわ寄せを体験することになるのである。
こう考えると母親のナルシシズムは、「ギン!」が有効な人に対してだけ働く、と考えていい。時にはそれは息子にも、そしてご主人にも働くかもしれない。そうなるとより顕在化する自己愛に発展するかもしれない。でも多くの場合は娘は母親の「ギン!」を恐れ、それから逃れるようにして自分の人生を歩むようになる。そのうち結婚して娘ができて、ふと気が付くかもしれない。自分も時々「ギン!」を使い始めていることを・・・。