2015年11月1日日曜日

母親の自己愛(推敲、加藤前)(1)

  なぜ「母親の自己愛」なのか?父親ではないのか、と読者は思われるかもしれない。もちろん父親はナルシシストであることが多い。それはことわるまでもないことだ。本書で描かれたナルシシストの多くは、家に帰れば実際の「父親」でもあるだろう。だから私としては「父親のナルシシズム」については、改めて論じる気になれない。
 しかし母親の場合は違う。彼女たちのナルシシズムは、外からは見えにくいだけに、本書で扱う意味もそれだけ大きいと考えられるのである。そしてこの項目を実際に書く気にさせてくれた本として、一冊の漫画があった。田房永子作、「母がしんどい」(新人物往来社、2012年)。この本については後に登場させたい。
 「母親の自己愛」問題は日本社会に蔓延している。いや世界中においてそうなのかもしれない。あるいは「人類の歴史を通して」と言ってもいいかもしれない。しかし日本における母親と子供、特に娘との関係には、やはり特筆すべきものがある。少なくとも私がよく観察をする機会を得た米国の母娘関係に比べてもかなり特徴的である。それに日本の患者さんから毎日聞いている話はかなり切実である。
本来日本人は几帳面できめ細かい。細部まで注意を行き届かせ、細かな違いや変化に気が付く。男性はそれを特に自然やモノに対して向けるが、女性は人の表情やしぐさに対して発揮される傾向にある。そしてもちろん日本の母親はその細やかな注意を自分の子供に対しても向けることになる。母親は子供を上から下まで眺め、様々な細部に気が付き、それを気にしたり心配したりするのである。
 母親からの注意深い視線を浴びることを、乳幼児は最初は歓迎するだろう。母親から見られ、応答してもらえることで子供は自分を発見し、その存在を肯定してもらう。しかし母親の子供に向ける目は、息子の場合と娘の場合で微妙に違うだろうが、ここでは娘に対する視線について考える。母親にとって娘はその幸せを願ってやまない存在である。しかし同時に、自分と同じ女性であることで様々な複雑な問題も生じる。母親にとっての娘は、ある意味では自分のコピーであり、自分の幼少期を鏡に映して見せ、かつ将来の自分のライバルともなりうる存在なのだ。
 母親は成長して徐々に女の子らしさを増していく娘に対して、様々なことが気になり、あれこれを注文を付けたくなるだろう。言葉遣い。態度やしぐさ。食事のマナー。たいてい母親はそれを心から娘のためを思っての行為だと信じている。もちろん幼い娘は母親を絶対と信じ、その教えを守ろうとするだろう。そしてその一部は確実に彼女の中にしみこみ、彼女の仕草やものの見方、考え方を形成していく。しかし娘は母親と違う存在である。母親が考えたようには動かない部分もたくさんある。普通娘はそのような時には母親に反抗し、我を通そうとし、そこで両者はしばしばぶつかることになるだろう。そしてそこからが母親と娘の長いドラマが開始するのだ。そのドラマの展開の仕方によっては、娘は深く傷つき、自らの存在価値を疑いだすことにもなるのだ。
 ここで田房永子作「母がしんどい」の中からある例を取り上げたい。母親との問題で、当事者の言葉に勝るものはない。その中に描かれているエピソードを紹介しよう。漫画で2ページであるが、言葉にすると少し長い。
 ある日主人公「エイコ」の「しんどい」母親は、娘がピアノを習いたいだろうと思う。その願望は実は娘からのものではなかった。おそらく母親は自分の小学生の娘が何か習い事をしているイメージを思い浮かべ、「それがいい!」、と思い込む。その発想自身は実に些細なきっかけによる場合が多い。近所の奥さんが「うちの娘がピアノに通っていて・・・・」というのを聞いて、なぜかそれを自分の娘に被せて考えたりするのだ。自分の描く娘像にピッタリ来てしまったのだろう。ただしこの部分は漫画にはなく、私の想像である。そこで普通の母親なら「でもそれって、娘の願望とは関係のない、私の思い込みにすぎないのよね」という反省が入る。しかし「しんどい」母親はいつの間にか「娘もそれを願っているはずだ、いや願わないことは許せない」と考えるようになる。そして強引に「ヤ●ハピアノ教室」に連れて行く。わけもわからず連れていかれたエイコは、いきなり教室の先生の前で、「今日からあなたはピアノを習うのよ。」と宣言されて、目がテンになる。「そんなこといきなり言われたって…」ところがそこで漫画では決定的なコマが入る。それまでは穏やかな、どちらかといえば優しい母親の目が「ギーン!」と光り、一瞬で恐ろしい形相になるのだ。「ギーン!」である。それでいて母親はピアノの先生には笑顔を向け続けることをわすれない。
田房永子「母親がしんどい」

 さて母親の「ギーン」を目にした娘は、えらいことになった、とパニックになる。逆らうと母親に殺されかねないと思うかもしれない。こうして強制的に通わされるようになったピアノ教室で、娘は不幸にして、ピアノを好きになれない。ピアノの才能があるなら、都合よく好きになり、自分から率先して教室に通うようになるかもしれないが、たいていの場合はそうは行かないものなのだ。その一方で「しんどい」母親の心の中では、「あの子はこれまでためていたお年玉でピアノを買いたいはずよね」という考えが働き、娘の口座(もちろん母親が管理している)からこれまでの数年分のお年玉を勝手に引き出して、ピアノを注文してしまう。(突然届いたピアノを見た娘の目は再びテンになる。)そして結局はピアノに触ろうともしない娘に対して母親は言い放つ。「あんたっていつも、モノを大切にしないんだから。」こうして母親から娘への「願望の押し付け」が行われるのだ。
この例はピアノだけについてであるが、漫画の中で母親はあらゆることについて同様の体験を娘に押し付けていく。そこで一貫して起きることは「自分の娘に関する願望」を「娘自身が望んでいるもの」に心の中で作り変えてしまう、というプロセスだ。もちろんこれは通常は起きないはずのことである。私たちは少なくともある程度の社会経験を積んだのちには、「自分が望むことと他人のそれは違う」ということを十分知っているはずだ。自分の願望と他人のそれがいつも同じであれば、これほど便利で好都合なことはない。一瞬にして人類は皆平和に暮らすようになるだろう。しかし他人は全く別の願望を持っていて、時には自分とは全く逆のことを期待していたりするのだ。そこで私たちは自分が望んでいることと他人の望んでいることを仕分けし、争いが起きないように譲歩し合う。それが社会で生きていくための方便であり、マナーである。
ところがこの自分の願望と他人の願望を仕分けるという作業を怠り、他人に「願望の押し付け」を強引に行うことが許されてしまう場合がある。一つはそれが圧倒的に腕力や権力な知力の劣った対象に対してである。そして時には親子の関係がそれに相当してしまうのだ。ちょうど「しんどい」母親がエイコに行ったように。
どうしてこんな理不尽なことが起きうるのだろう、と私たちは思う。しかし親子の間でこの種の問題が起きる素地はいくらでもある。子は幼い時には親を精神的にも肉体的にも100%頼っている。親がひと睨みすれば、子供は言うことを聞かざるを得ない。生殺与奪の権は母親に握られているからだ。自己愛は拡大する余裕がある限り拡大する。母親のナルシシシズムはここに極まれり、というわけである。