2015年10月28日水曜日

自己愛的な人々(加藤チェック後) 第15章

15章 精神分析家の自己愛


実は私はどうしてもこれを書かずにはいられない。自分も含めて、セラピスト、カウンセラー、精神分析家の類は、ナルシシストがとても多いのである。
こう言ってはなんだが、分析家とは、その職業の内容からして、とても高飛車な人たちである。だってそうではないか。「私は心の問題のエキスパートです。他人の心の問題を理解し、その援助をする専門家です。」という看板を掲げているのが分析家なのだ。
 もちろん私がこのようなことを書く意味が分からない、という人もいるかもしれない。というのも「『心の専門家』がどうした?他の仕事に比べて何が特別なんだ?」という人がいてもおかしくないからだ。
 私は心の問題を扱うのは、とても崇高なことだと考えているし、その専門性を有することはすごく誇りに思うべきことだと思っている。でも一般人がそう思っているとは全然限らない。それよりも、数学や物理学の難しい問題を扱う人こそが一番偉いと思っている人もいるかもしれない。とすると数学の専門家を自認する数学者ほど自己愛的な満足を味わう可能性のある人はいない、ということにもなろう。
 その意味で心の問題を扱う人と、人体の臓器の病変を扱う人と、お菓子を作る人と、為替を扱う人に差はないかもしれない。それぞれが自分の仕事をとても大切なものと考えているだろう。すると分析家も内科医もパティシエも証券取引所で活躍するディーラーも、それぞれが自分の仕事についてのプライドに比例した自己愛を味わっていることになる。しかし・・・・・
私はやはり分析家に自己愛的な人が多い気がしてならない。「自分は特別」感が彼らには特に強いのだろう。自分は人間として高い心のレベルに至っているという錯覚。自分は精神的に成熟している感覚。これが分析家の自己愛をくすぐるのだ。
フロイトが非常に自己愛的であったことは論を待たないであろう。もちろん彼は自己愛的になるだけの根拠があった。彼が打ち立てた精神分析理論はその後の心の専門家に決定的な影響を及ぼした。一世紀が過ぎてもこれほどまでに影響力を発揮する理論など、他の学問の分野に存在するだろうか? アインシュタインやダーウィンに比肩すると言っていい。
 しかしフロイトの理論は、それ自身が分析家の自己愛を満たすような形で浸透していったことも確かである。精神分析という何年もかかる厳しい自己探索の作業、それによる自らの無意識の解明、そして他人の連想や夢内容を分析する力の獲得、という一連の流れを示すことで、それを志し、一生の仕事としたいという夢を多くの人に与えた。そしてその世界には、
アナリザンド(被分析者)  スーパーバイジー  精神分析キャンディデイト  精神分析家  教育分析家
という階層が生まれ、精神分析の道を歩む人にとっては、分析協会に入門を許されてからは、最終的に教育分析家になることが一つの大きな目標となった。そしてそこに達した際に体験する自己愛的な満足も計り知れないのだ。
 その自己愛的な振る舞いが様々な問題となったり、その立場に任せて患者と個人的な関係を持ったりした人は、精神分析の歴史の中で何人も登場する。その中で私の心に特に浮かび上がる二人を紹介しよう。一人は英国の精神分析家マシュード・カーン、もう一人は米国の精神分析家カール・メニンガである。もちろん他にも自己愛的な分析家はいくらでもいるかもしれない。ただ私が分析家として見聞きする中では、その業績だけでなく、あるいはそれよりもむしろ、その自己愛的な振る舞いのために特によく名前にのぼるのがこの二人である。。

マシュード・カーンの自己愛

マシュード・カーンは分析界の巨匠ウィニコットの右腕的な存在でありながら、その人騒がせな言動ばかりがクローズアップされてきた面がある。
以下に、カーンの伝記(FALSE SELF The Life of Masud Khan. By Linda Hopkins. . Other Press2008)などを参考にしてまとめる。
マシュード・カーン(Mohammed Masud Raza Khan)は1924年、英国領インドのパンジャブ地方(のちのパキスタン)の裕福な家に生まれた。成人してから英国に移住し、精神分析の世界では早くから頭角を現した。プライベートでは二人の有名バレリーナと結婚し、二度離婚するなど、派手な人間関係でも有名であった。
 カーンはきわめて知的な能力が高く、編集者としてのスキルを買われて、多くの本を編集している。前世紀の後半においては、精神分析の世界で有能で多筆の分析家は少なかったが、その中でカーンは例外的な存在であった。彼はウィニコットの分析を受け、また彼の長年の協力者であったとともに、その共著者、作品の編集者でもあった。またカーンは、かのアンナ・フロイトの精神的な庇護を受け、何かがあっても彼女に守られたという。学問的な業績でも、例えば彼の累積外傷cumulative traumaの概念は今でもしばしば文献に引用される。彼はまた倒錯と、幼少時の生育環境の関係などについても優れた論文を発表した。このようにカーンは、精神分析の世界では、将来を嘱望され、若くして期待を集める存在であったことが伺える。
 彼は指導分析家になるための面接に2度失敗したと言われるが、そこに彼の人格的な問題がどのように関係していたかは不明である。指導分析家になってからは、徐々にその行動は分析の枠組みから外れるようになった。彼は酔っぱらって乱行に及ぶ、患者とだけでなく患者の配偶者、その娘たちとも性的な関係を持つ、などの行動が目立ったという。また治療関係が終わった患者を脅したり、患者同士の性的関係を薦め、自分自身の情緒的なニーズを満たしてくれない患者を捨てたとも伝えられている。そのような尋常ではない振る舞いの背後には、双極性障害(躁うつ病)があったのではないかと考える人もいる。
カーンは非常に自己愛的で、自らを「長身でハンサムで、ポロとスクワッシュが得意。高貴の出で極めて裕福である。」と紹介するほどの自信家であった。彼には微小な奇形があり、右耳が少し突き出していたという。欧米では耳が立っていることを非常に気にする人が多いが、彼もその例外ではなく、ベレー帽などを被ってそれを隠していたらしい。しかしウィニコットに促されて、その耳を外科的に矯正してもらったという。
 カーンの自己愛的な問題は人生の終盤に更に加速し、人に自分を「カーン王子」と呼ぶよう強制し、自分でもサインにそのように書いたが、その地位を正当化するような根拠は結局見つからなかったという。彼は実際に非常に活動的でチャーミングであったが、唐突に分析的な洞察を織り交ぜた言葉を人に発し、それが侵入的で攻撃的なニュアンスを含んでいたらしい。せっかくの精神分析のトレーニングも、彼の自己愛的な傾向を悪化させることに繋がっていた可能性がある。
 カーンのこの人格的な面については、分析家の間でもいろいろ取りざたされ、ウィニコットとの15年にもわたる分析が持っていた意味についても様々に論じられた。簡単に言えば、「ウィニコット先生、15年も何をやっていたの?」というわけだ。たとえばウィニコットは逆転移における憎しみについてたくさんの論文を書いたが、カーンの分析に関してはその処理に失敗し、結果的に彼の性格的な問題を助長したのではないかとも言われる。しかし私はこの意見には反対だ。(断っておくが私はウィニコット贔屓である。)このカーンの事例は、人格の中には、精神分析では扱えないものがいくらでもあるということを示しているかもしれないし、またウィニコットの15年の分析があったから、カーンの問題は「この程度で済んだ」可能性もあるのである。
 カーンはIPA(国際精神分析協会)に対して不適切な手紙(内容は不明である)を書いたことや、彼のアルコール問題が深刻になったことにより、1965年に結局IPAから追放されたのだが、その頃から、患者との性的関係が本格的に始まったらしい。その彼の病理は、1970年代前半に、母親とウィニコットが相次いで亡くなってから、歯止めが利かなくなった。ある時はレストランで、太った客にケーキを送り、「これを食って早く死ね」と叫んだという。
 1976年には英国精神分析学会からも、訓練分析家の地位をはく奪されている。そして1988年には反ユダヤ主義と反精神分析的な考えに染まったトンデモ本を出して、最後に英国精神分析協会から追放されたと記録されている。
カーンが1989年に亡くなった時、人々は彼の明晰な頭脳をたたえるとともに、彼が自己愛的で、嘘つきで、スノビッシュで、残酷な側面を持っていると毀誉褒貶の内容の追悼文を目にすることになった。

カール・メニンガーの自己愛

 米国で1900年代半ばに活躍した精神分析家カール・メニンガも、またきわめて自己愛的で、毀誉褒貶の多い人であった。彼は私が留学していたメニンガークリニックの創設者のひとりであり、高名な精神科医、かつ精神分析家として、彼の噂はかなり知れ渡っていた。彼がいかに天才的な頭脳を持ち、数々の著作をものにし、メニンガーの名前を高めたのか、そして同時にいかに暴君で自己愛的で多くの被害者を出したのか、ということである。
 メニンガー家についての様々なスキャンダラスな出来事が一気に知れ渡ったのは、1992年にローレンス・フリードマンの『メニンガー:その家族とクリニックMenninger: The Family and the Clinic』という本が出版されてからである。亡くなる少し前にカール・メニンガ自身の聞き取りをも行ったうえで書かれたこの本は、期待も高かった。しかし、いざ出版されてみると、余りにあからさまにメニンガーファミリーの内情を書いたために、メニンガークリニック内ではいわば焚書扱いになり、メニンガー図書館にもこの本は入れないことになってしまった。しかし私はこの本によりアメリカにおける精神分析の歴史の一端を知ることができたと思う。
  メニンガークリニックは、その父親チャールズと二人の息子ウィリアム、カールによって1919年に創設された。もう100年も前のことである。その後カールが中心になってクリニックの規模を拡張していった。1942年にメニンガークリニック内に、「トピカ精神分析研究所」を開設し、1945年には「メニンガー精神医学校」を開校。メニンガー・クリニックは精神病者の診療だけではなく、精神分析家のトレーニングや教育を行う、世界的な力動的心理学(力動精神医学)の研究・臨床の拠点として大きな発展を遂げることになった。
 カール・メニンガーは、学者としては一流であった。彼の主要著作には、自殺心理の生成をフロイトのタナトス(死の本能)の概念を参考にして研究した『己に背くもの(1938)』、治療同盟や固着・退行の病理メカニズムに注目した『精神分析技法論(1958)』、人間の愛情と相互的に作用する憎悪について考えた『愛憎(1942)』など様々なものがあった。
これらの著作は広く読まれ、ペーパーバックになって一般の書店で売られ、カールは精神医学の世界では、サリバンに並ぶような地位にまで押し上げられた。1950年代は彼の絶頂の時期である。
 カールはフロイトに心酔していたと言っていい。フロイトがユダヤ人として迫害を受け、亡命する際には、メニンガークリニックに来てはどうか、と誘いの手紙を書いたとも言われるが、結局フロイトに無視されてしまった。フロイト自身は非常にプライドが高く、「アメリカのような野蛮な国になど行くものか」という偏見に満ちた姿勢を保っていた。それでもカールは精神分析家になる道を邁進し、兄のウィリアムとともにシカゴまで汽車で何時間もかけて週末に分析を受けに通い、その資格を取った。二人の分析家は、フロイトの直弟子のフランツ・アレキサンダーであった。
 ところが名実ともにメニンガークリニックのボスとなったカールの横暴ぶり、ワンマンぶりが次第に非常に目立つようになった。弟のウィリアムの方は温厚でスタッフ受けは良かったらしいが、カールは感情的で物事を自分の思うがままに動かせないと癇癪を起すところがあった。しかし他方では患者に非常に繊細で愛他的な態度を示す、という二面性もあった。
 カール・メニンガの自己愛的な振る舞いは、やがて報いを受けることになる。それが1965年に起きた一種のクーデターで、いわばカールはそのボスの座を一気に奪われてしまったのである。
 この顛末をフリードマンの伝記をもとにもう少し詳しく紹介しよう。1965年の421日から一週間の間に起きた出来事である。クリニックにおいてカールの独断で横暴なやり方に嫌気がさしたスタッフからいろいろ不満が出てきて、話のわかる弟ウィリアムのもとに集まった。そしてカールを一気に追い出そうということが決まった。その時カールも地元にいたが、ある程度話がまとまってしまい、彼の側近までもが彼にそむいたことが彼に伝えられた。カールは激怒したが、結局仕方なくメニンガーのオフィスをたたんで、地元にあるVAホスピタルのオフィスの方に引き下がったという顛末である。
 それまでウィリアムは兄カールに常に従う形でチームをまとめていた。ある意味では彼もまたカールの下で苦しんだわけである。といっても二人の兄弟の仲は比較的良好であった。何しろ一緒に分析を学んだ仲であるし、ウィリアムは性格が穏やかだから兄を基本的には立てていたのだ。カールもまたウィリアウムの緻密で配慮の行き届いた仕事のおかげで自分の創造性が発揮される、と言っていた。
 しかしカールの問題は、自分で決めたことに、強引にみなを従わせようとし、自分に逆らう人に対して激しい感情をむき出しにするところにあった。また細かいことにこだわり、それを他人に押し付けるところもあった。これらは両方とも自己愛の問題として捉えることができよう。
ウィリアムはこう言ったという。「カールは細かいことに非常にこだわり、私に向かって『君は僕のことをわかっていない、僕の話を聞かない』というんだ。あるいは彼の言うことに疑問を投げかけることが出来ない。『僕のことを信頼していないんだな』となってしまうからだ。」(Friedman, p309
私は特に、細かいことにこだわり、それを押し付けるという点が人々の気に触り、その自己愛的な人間を非常に不人気にするのではないかと思う。人はだれでも必ず何らかのこだわりを持つ。それは間違いのないことだ。朝起きた瞬間から、顔の洗い方、歯磨きのチューブの閉め方、トイレのふたの閉め方、朝食の際の箸の持ち方などにことごとくその人の癖が反映される。それ以外のやり方では落ち着かないし、それ以外のやり方をしている人を見ると気持ち悪くなる、ということが誰にでもある。几帳面な性格の場合は特にそうだ。しかしそれを人は互いに見て見ぬふりをし、許し合う。お互い様だからだ。
 ところが自己愛的な人間は、人をことごとく自分のやり方に従わせ、自分の色に染めようとする。そうしないとそれを見ている自分が落ち着かない、というそれだけの理由の場合もあるし、それが正しいやり方だから、と思い込んでいる場合もある。
私が昔会ったある高名な先生は、世間では押しも推されもせぬ大家であるにもかかわらず、奥さんに「あなたは箸もちゃんと持てないの?」と言われてしまった。もちろん奥さんはその先生の家庭外での幅広い活動のすべてに口出しをすることなど出来ない。むしろ先生としては結構自由にやらせてもらっていることに感謝している。すると細かいことは奥さんのコントロールに任せるということは、実は家庭円満のためには重要なことだ。そこで自己愛的な問題の少ないその先生は、実際に箸の正しい持ち方を練習するようになったという。やはり奥さんに対してはこうでなくてはならない。
 しかし人は家庭の外では、たとえば自分の同僚や部下や友人に対しては、自分の習慣や癖を押し付けるわけにはいかない。そのようなことをしては、あっという間に関係が崩れてしまう。ところが一定の力を持った人間はそれをし通してしまうことがある。するとその人は自分が人を支配しているという感覚を持ち、自己愛的な満足体験を得るのだ。
メニンガー兄弟の話に戻ろう。ともかくもこれを期に二人の仲には甚大な影響が及んだ。決定的な溝が生まれたのである。その頃アメリカを代表するニュースキャスターであるウォルター・クロンカイトが、すでに世界的に名を高めていたメニンガークリニックに取材に訪れた。彼は兄弟にインタビューを行なうつもりだったが、困ったことに二人が同席しない。そこでそれぞれを撮ったフィルムをつなげて3人で話しているように見せるという工夫を余儀なくされたという。
この兄弟葛藤の経緯を知るにつれて、カールのナルシシズムの問題が浮き彫りになってくる。彼はメニンガーの名を世界にとどろかすために、新しい土地を買い、事業を広く展開しようとしていた。他方ではそのための資金は膨大で、しかも資金調達のための募金活動は弟のウィリアムに任されていたのである。これらの葛藤は彼らの決別を準備していたことになる。カールは「クーデター」のあとも彼を陥れた形となったスタッフにつらく当たり、特にカールがかつて精神分析を行ったスタッフに対しては、そこで得た個人情報を悪用しようとした。ウィリアムは抑うつ的になり、おそらくそれも遠因となり肺がんにかかり、1956年秋には世を去った。
ところでカール・メニンガーは精神分析のトレーニングを受けている。精神分析は彼の自己愛をどのように扱ったのであろうか。カールはシカゴでフランツ・アレキサンダーから精神分析を受けたが、アレキサンダーは1934年にカールを伴い、ウィーンのフロイトを訪れている。その時アレキサンダーはフロイトに「この男は非常に自己愛的です。あまりおだてないほうがいいでしょう。」と言ったとされる(Friedman,108)。フロイトはそのせいか、カールに対してきわめて冷たく扱ったというが、その時カールはこう言ったという。「フロイトは一体誰と話しているか想像もつかなかっただろう。」こうして「私の自己愛は大きく傷ついた」(Friedman)わけである。
カール自身がアレキサンダーとの分析は首尾よく行われたものと思わなかった。アレキサンダーはしばしば治療境界を破り、他の患者のうわさをしたり、カール自身に浮気を継続するように示唆したという。カールはアレキサンダーとの分析の後に、ルース・ブランスウィックの分析を受けたが、彼女も分析の時間中に寝込んでしまったり、かかってきた電話に出たり(分析ではご法度である)、自分の身体的な苦痛についての不平を漏らしたりするという行為が見られた。結局カールの分析体験は、「分析家は患者より自分のことが大事である」というお手本を見せられた形になったという(Friedman P86)。やれやれ、である。