2015年9月25日金曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 1

精神分析における「現実」を再定義する 
現実の主観的・客観的な性質
最初に本論文の要旨を述べるならば、精神分析とは分析家と患者が、「共同の現実」を扱う作業であるということだ。ここで「共同の現実」とは、「分析家と患者がその中で体験したこととして、その違いを含めて了解したもの」である。

 現実というテーマは、精神分析では従来より常に話題となっている。フロイトの時代には、患者の無意識を科学的に見出し解釈するという実証主義的positivist な考え方が主流であったが、現在はそれに従う臨床家は、少数であろう。Owen Renik1993)が言うような、治療者の「減じることのできない主観性irreducible subjectivity」の概念は広く議論され、批判的に検証されている(Louw, Pitman, 2001)。客観的に把握できるような外的な現実などそもそも存在しないというのが、おそらく多くの間主観性論者や構成主義者の考えとなっているのだ。 
 しかし現代においてはより相対主義的な考え方も存在し、著者はむしろそちらに与する。その立場は、現実として、自分たちの外に「何か」、少なくともある種の刺激の源のようなものは実在する、と考える立場だ。それが現実についての相対主義な立場なのである。Walter Ricci Frances Broucek (1997) によれば、「客観性とは、自分の外に何かがあると確信できることである。それを治療者と患者が共同でconjointly 体験するのだ」という。分析家と治療者の一組は、それを二人だけの世界の外側に感じるというのだ。たとえば二人が面接を行う面接室は、外的な現実としてそこに確かに存在すると考えるべきであろう。それが提供する空間がどのように感じ取られるかはべつとして、そこに確かに知覚源として存在するのである。現実とは架空のものであり、客観的objectiveなものではない、という見方はポストモダンの考え方としては常識に属すると思われるが、この見解はそれとも少し異なる考え方といえる。 Glenn Gabbard (1997)は、患者にとって治療者はいわば対象であり、その意味で「対象的objective」な存在でもあるという。 英語で言うobjective には、「客観的」、という以外に「対象的」という意味も、そして「目的語的」という意味もある。Objectは「対象」と言う意味もあり、また文法の用語としては「目的語」だからだ。同じように、subjectiveは、「主観的」、「主体的」、「主語的」となる。(訳注:ちなみにこの「対象的」を日本語の辞書で調べても、「対象(目的)の形容詞」という以外には何も出てこないだろう。用いられるとしても大概は「対照的」の誤用、誤記である。)
 さかのぼって考えるならば、Freudはきわめて実証主義的 positivistic な人物だった。人の心の病は無意識に抑圧された特定の欲望やファンタジーにより生み出されるものと考えられた。私たちの時代はそれから一世経過しているわけだが、じつはこのフロイトの考え方や、そのもととなる19世紀終わりのヘルムホルツ学派の考えは、私たちとそれほど違っていたのともいえない可能性がある。心において生じる現象に何らかの対象化しうる理由や原因を求める傾向は、現代の私たちもかなり強く持っていることは疑いない。 
 実証主義的な考えの一例として、筆者自身の経験を示そう。筆者が精神科医になって病棟で任された最初の患者は三十代の独身男性であった。一週間前からアルバイト先に通えなくなり、急に口を利かなくなり、食事もできない状態で、家族に連れられてきた。付き添ってきた彼の兄によると、どうやら付き合っていた彼女から数日前に一本の電話を受けたあたりから調子が悪くなったという。そして一昨日からまったく喋らず、食事もせず、夜も眠れていない状態である。目はうつろで体全体がぶるぶる震えている。時々出てくる言葉の意味も明確にはつかめない。「誰かに追いかけられている・・・」という内容らしいが、それが誰のことかは教えてくれない。いまから思えば明らかな精神病性の昏迷状態である。しかし私がその時何を考えたかといえば、その彼女から何を言われたかが決め手だろうということだった。あるいは誰に追いかけられているのかを知ることを通して、私は彼の心の中に入っていけるとも考えた。彼の心は何かを必死で隠している。それを患者と一緒に考えることで、彼はまた再び話し出し、食事をとれるようになるだろうと思った。そこで私はとにかく彼を説得して、話をしてもらおうとした。私は彼の横で数時間頑張ったのである。
 いまから思えばなんと大きな勘違いをしていたのだろうと思う。それから精神科の仕事を続ける中で、私のこのような試みがほとんどと言っていいほどに意味を持たないことを知った。その男性に必要なことは、必要な処方をしたうえでとにかくぐっすりと寝てもらうことだった。彼の「口を割って心の奥に隠された真実を聞き出す」という努力は意味がないだけでなく、かえって彼の病状を悪化させたはずなのだ。
 この筆者例にみられた思考が、実証主義的な思考といえる。この統合失調症の患者の発症の背後には、何か客観的な意味や原因がそこに存在するはずだという前提がそこに見られる。その意味では私は精神科医のトレーニングを積む前は、しっかり19世紀の末の思考をしていたし、精神医学を知らなかったら、おそらくそのままの思考を持ち続けた可能性がある。物事の背後に形を成した「何か」が客観的に示すことが出来る形で存在するという考えは、これほど私たちにとってなじみがあるのである。
 私が本稿で強調したいのは、現実が対象的 objective であり、主観的 subjective であるという二重の性質を持つということだ。上述の通り、現実は何かを感じるもととなるソースとして外在する対象 object という意味での対象性を有するのでobjective である。しかしそれを切り取るのは主観であるという意味でsubjective でもある。ここで重要なのは、現実が主観的であることは対象的であるということを少しも減じないということである。さらには治療者と患者は、お互いがお互いにとって、そのような意味での現実という意味を持つのだ。
何しろ患者にとって主観的である治療者は自分の外にあるからであり、同じことは治療者にとっての主観的である患者についてもいえるのである。このような現実の捉え方は、いかに示すような共同の現実conjoint reality という概念を介して臨床的な意味を持つ。そのことを示すために、まず以下に簡単な臨床例を提示したい。