ある終結ケース。承諾あり。しかし詳細は変更に変更を加えたある。しかもはるか昔の例。
(前略)
<「自分はきちんと終結できるだろうか?」>
(前略)
<「自分はきちんと終結できるだろうか?」>
終結期に焦点を絞るために、Aとの治療プロセスを相当早送りしなくてはならない。Aは私との分析を中心にして生活を組み立てるようになった。彼は私を、治療者として、先達として、あるいは父親として、息子として、様々に見立てているようであった。私には異郷の地で本格的に私を「拾って」くれたAに感謝をした。しかし早晩生じてきた私の「Aは終結するだろうか?」という懸念は、結局Aの側の懸念とも呼応していたとみていい。それを思わせるエピソードがある。
治療が始まって3年目の夏の暑いある日、Aは分析のために私のクリニックの駐車場の小さな木の陰に車を停めた時のことを話した。その木は最近植えられたもので、Aの背と同じくらいの高さだった。その時
Aは、これから私とのセッションに来るたびにその木のそばに車を停めようと考えたという。そして5年、10年と経ってその木が大きく成長し、大きな影を作って駐車している間車を冷やしてくれるのではないかと思った。しかしそれと同時に、それはこれから自分が何年もの間治療に通うことを期待していることに気がつき、自分が精神分析に対する依存症になっているのではないかと心配になったという。私はこれを聞き、Aがすでに私と同じような懸念を持っていることに気が付いた。
Aと私は彼が精神分析プロセスに対して、そして私に対しての関係性を深め、それを継続したいという強い願望そのものについて話題にすることとなった。Aはこの願望には明らかに、幼少時に父親から十分な注意を向けられなかったことが影響していたことを認めた。母親も今から思えば、自分に対して十分な注意や愛情を向けるとは言えなかった。夫との関係が既に冷え込んでいた母親は、むしろAに対して精神的に依存するようになっていた。数年前にAの鬱状態に反応してその入院を手配し、その後もいわばAを抱え込むような反応を見せた母親は、そうすることでAの自立を暗に阻んでいるかのようなニュアンスがあったことも明らかになっていた。そしてそこには同時に、Aの私に対する父親との同一化という大きな力動が働いていたという事情も見えてきた。私の母国である日本はAにとっても幼少時を過ごした土地であるという意味では、私の存在には母親的な意味合いもあった。そのようなことを話し合ううちに、Aは自分自身の私への依存欲求はそれに対する怖れについて、より客観的に理解できるようになったようである。
(中略)
終結まで半年ほどの時期のあるセッションで、Aは自分が低い料金でのセッションを巧妙に利用しているのではないかと懸念していると語った。そして「私はもっとあなたを必要としている人のためにこの機会を早く譲らなくてはならないかもしれませんね。」と語った。終結まで3ヶ月になると、A は分析以外の方面での関係性を持つことに力を注いだ時期でもあった。私が一週間の休暇を取った際に、分析のない時間に、彼はたくさんの知人にメールを出した。それはサマータイムが終わることへの警告という呼びかけという形をとっていたが、それに返事をしてきた二人の女性とメールのやり取りをするようになった。そのうちの一人、Dは A の高校時代のクラスメートであったが、Aはその女性とやがて深刻な内容のメールのやり取りをするようになった。Aと私はこの終結の間際に彼が見せた行動について、その意味を話し合った。Aは最初はDへのアプローチと私たちの終結との間に関係性を見出さなかった。しかしやがて A は、これが彼が終結を扱う一つのやり方であるという可能性を認めた。私はまた、これは彼自身の私を喜ばせたいという試みかもしれないとも感じた。かつて精神分析の目的について話した際、フロイトが言及した lieben und arbeiten ということについても A と話したことが思い出された。私はまた自分自身の中に、A との分析を成功裏に終えたいという強い願望があることを認めた。
A のDとの関係が進む中で新たなことが起きた。ある日私たちは彼の受身的な態度や新しい関係を始めることの難しさについて話していた。彼は人から拒絶されることへの強烈な恐れについて論じてそのセッションは終わった。次の日のセッションにやってきた
A はこう話した。「昨日のセッションが終わった後、私はDにメールを出して自分の想いを伝え、本格的に付き合おうと提案をすることができましたよ。私たちがこれを話さなかったら、私は決してDに声をかけることができなかったと思います。」このコメントが興味深かったのは、前日のセッションは私はA の拒絶されることへの恐怖についてもっぱら聞き、彼にDとコンタクトを取ってみるように私の側から提案することは、なかったのである。
Aが終結に向かって準備ができ始めていることは、彼が自分の受身性や依存欲求への理解を深めたことにより明らかになった。それは私たちの関係性において明らかになっていた。それらの特質は私たちのこれまでの6年の精神分析の駆動力となっていたのである。
このころAは次の様な夢を報告した。ある日彼は次のような夢を報告した。「あなたがある種の分析のミーティングにいるんです。そしてなにかとても大きい魚を釣り上げたという自慢をしているのです。それは私のことを意味していて、セッションにはいつも時間通りに表れて、見事な進歩を遂げているといっているのがわかりました。」私はそれに対して「それはあなたがお父さんの自慢の息子になりたいという気持ちの表れでしょうね」と応じた。
終結を一週間後に控えたある日、 A は自分が精神分析にどのような点数をつけてもらえるかを尋ねてきた。そして私がそれについて私が何も言わないうちからこういった。「私はこんな質問を何度かしましたよね。でも今日は私はあなたから具体的な点数を聞きたいのではなく、ただ思い出したかったのです。」私は
A に、自分の分析にどのような点をつけると思うか聞いてみた。彼は自分がかなりうまくやったと思うと語った。私もA がこの6年間一度もセッションに遅れることがなかったことを指摘した。私は彼が自分の分析にいい点をつけたことがうれしいと告げた。
分析の終結の前の週に、A は象徴的な行動に出た。彼はかなり無理をしてお金をかき集め、Dに会いに行き、楽しい時を過ごしたというのである。そして「いよいよ私は本格的な行動に出始めました。新しい仕事も見つけなくてはなりません。」と言った。
(中略)
Aとの分析が終結して一年ほどで、私は十数年住み慣れ、Aとの分析を6 年間行った町を離れることになった。それまで私は A から2回ほどメールが送られてきた。それらは三つの出来事を伝えてきた。一つは A が市内の薬局に無事定職を得たということであった。そして二つ目は私が勤めていたクリニックのボードメンバーに選ばれたということである。さらにもう一つは、親しくし始めたDとの関係が破綻し、彼の方から別れを伝えたということである。「人から捨てられることをあれほど恐れていた私が、先に相手に別れを告げることになるとは思いませんでした。でもDが私に全面的に依存してくることにこれ以上耐えるべきではないと思ったのです。またしばらくは私は一人でやっていくことになりそうです。」と書かれていた。