DIDの治療をしていて一番その醍醐味とともに難しさを感じるのは、私がこの発表で黒幕人格と呼ぶ人格部分の存在である。私は臨床場面ではさらに省略して、あるいは敬意を表して、「黒幕さん」と一応呼ぶが、彼らは突然出現して怖い発言をし、時には暴力的になる。大抵は周囲が動揺するほどの凶暴性は見せないが、それでも治療場面においては、その構造を守る側に動揺を与えるのだ。
この黒幕人格に対して、私たちは統一した理解は何も得ていないという気がする。そこで今回まとめて考えてみたい。なおきっかけは去年のこの会場での柴山先生との会話で、黒幕の由来は一種の守護神である、という彼の意見についてである。結果としてはいろいろとあって分類するしかないということになったが、お聞きいただきたい。
まず黒幕人格は、どのように定義するべきか。「怒りを抱えている人格部分」ないしは「破壊性を備えている人格部分」というのがすんなりした定義かも知れない。それは怒りの衝動とだけでは説明できないからだ。陰で操っている、といういい方もある。そうして黒幕人格のもう一つの特徴は、その素性が不明であることが非常に多いということである。黒幕人格は普通は影のような存在であり、名前を与えられていないか、あるいは「顔なし」「イット (it) 」「アンノウン (unknown) 」などの、むしろ名前がないことそのものがアイデンティティであるかのような呼び方をされている。さらにはその出現の仕方も一時的であり、外界とコミュニケーションをとることが少なく、すぐに消えてしまい、それが出現する頻度も少ない。以上をまとめると「怒りを抱え、その素性が明確でなく、危機的な状況でのみ現れる傾向にある人格部分」と表現することが出来るであろう。
しばしば特徴的なのは、黒幕人格は、主人格が危機に瀕したり、怒りの感情を通常なら掻き立てられるような場合に、一時的に出現するということだ。私は臨床場面で目の前で黒幕人格が出現したことが何度かあるが、いずれも主人格が怒りの感情を自由に自らに許容するならば、怒ったであろうと気に、代わりに出てきたのである。
ここで交代人格の成立するアウトラインを少し話して、事例に移っていこうと思う。臨床経験からわかっているのは、交代人格は、一つの主観の地点 locus であることだ。ある体験をしているとき、それは独自にそれを感じ、情緒的な反応をしている。ただしその表現を与えられているのは一つに過ぎない。それは今運転席に座っている人格である。多くの別人格は、いわば交代人格の視点は、ロックトインシンドローム(外から見たら昏睡状態だが、本人は覚醒している状態)のように、何事かを体験しても、それを表現できない状態にある。その中で特にその表現の機会が与えられない人格がいたらどうだろうか?それが怒りや憎しみなどのネガティブな感情を伴うせいで、その存在を許容されなかったり、その表現が憚れる場合である。それが黒幕人格の形成に関係しているのではないかと思う。
結局は私の患者Aの言葉通りということになる。
これまで何度も言っているように、DIDの患者は通常は極めて細やかな配慮を他者に対して行う。彼女たちは家族に対しても、治療者に対しても不満や怒りを表出することが少ない。するとそれらの解離された感情部分を担った人格が存在することになり、それが時折姿を見せる。その中でも特にその表出が激しい人格は、ふつうその同定に抵抗を示し、またしばしばunknown という形で匿名的に振る舞う。
もうひとつの視点は、果たしてそれが本人を保護するのか、それとも本人に敵対的か、ということであるが、その点が曖昧であるということが特徴としては言えるだろう。つまりそれは、自分を叱咤激励するような声であったり、自分を破滅させるような声だったりする。そしてそれは超自我的な声の特徴なのである。超自我もまた、「お前は駄目なやつだ」という声のかけ方をしてくる。
2.いくつかの事例
本人に代わって他者をしかる例
(略)
拗ねて拒絶的になっている例
(略)
虐待者が乗り移っている例
(略)
怒りの感情を担当する例(略)
主人格と競合する例
(略)
3.黒幕人格生成に関する仮説
A 超自我の前駆体か?
黒幕人格は、超自我が形成される際のなんらかの不具合basic fault により発生したという見方がある。そこで通常は超自我はどのように形成されるか。幼児はさまざまなメッセージを親から受ける。それは禁止や叱責という形を取る。「しっかりしなさい」、「ちゃんとしなさい」、「いい子でいなさい」「嘘をついちゃいけません」。そうしてもうひとつ、非常に重要なメッセージを送る。「言うことを聞きなさい。」そこには言うことを聞かなければ、自分は愛情を撤去する、というメッセージが含まれる。あるいはそう受け止められる可能性がある。
さて通常はこれらのメッセージを取り込みつつ、子供は育つ。子供は一方では自発性を発揮し、欲求を持ち、それを満たそうとするが、それにより懲罰されるのを恐れる。それは内なる声となり、超自我の前駆体となる。このプロセスはおそらく罪悪感の形成と歩調を合わせていると言えるだろう。親に怒られるから、というよりは自分自身がつらいから、ある行動に抑制をかけるという風に。
このようなプロセスによる超自我が、病的な形成のされ方をした場合を私たちは3つ知っている。強迫思考、交代人格であろう。そもそも大脳の中で超自我的な役割をするのは、扁桃核と前頭葉である。
症例)お前はさっきここに歩いて来る途中で、人を突き飛ばしてけがをさせた。」この考えを否定するために何度も後ろを振り向き、最後には頸部痛を抱くようになった。
さてこれらの禁止や叱責は子供に別のことを生む。それは怒りであり恨みである。これらのネガティブな感情は、実はきわめて複雑な処理の仕方をされる。それはそれらの感情が処罰への恐れや罪悪感を生む可能性である。したがってそれらの感情は多くの場合表現されず、記憶として溜まっていく。
さて心の中に、別のLocus が存在した場合、これらの感情がそこで体験され、記憶として残る可能性がある。怒りや恨みは不都合な感情であるが、それが心の別の部分で体験された場合は、子供はそのつらさを味あわなくて済むのである。ところが問題はその部分が自律性を獲得するという可能性がある。このプロセスは通常の人にも生じていることは、分離脳の実験が教えてくれている。あるいは脳の一定の領域が独立して働く事さえできれば、そこに意識を宿すことは十分あり得る。
脳をネットワークとして考えた時は、そこに十分な情報量が扱われる場合、トノー二の理論では、そのΦが十分に大きければ、それが意識を持つ事が出来る。するとその中には、明らかに与党として振る舞う人格と野党として振る舞う人格が出て来るであろう。
B 過剰同調性か?
DIDの患者について、いつも言われる特徴としての、いい子。自分の感情を表現できない、しないということとどのような関係があるのだろうか?多くの患者が、相手が言ってほしいと思っていることを言う、という。それが感じられると、それに従う自分は比較的容易に成立しやすい。なぜなら既成だから。そこにネガティブな感情が抜かれていることが相乗効果を発揮するのであろう。
C 「攻撃者との同一化」か?
それほど単純ではないのだろう。黒幕人格で悩まされるのは、それが本人の行動を妨害したり、本人に暴言を向けるという現象である。これが、加害者の内在化として解釈される根拠となる。しかしそれは各人格間の関係性から生じる場合がある。私たちが考えなくてはならないのは、対人関係ではなく、対人格関係。(Inter-parts of personality). 人格間はいとも簡単に相手を他者として認識し、それに対して嫉妬、競争心、羨望、愛情といった他者への感情を持つ可能性がある。その中には兄弟葛藤も当然含まれるが、それはあるひとつの事情を伴うために、より鮮明になりやすい。それはひとつの体、そして時間の競合関係にあるという点である。それぞれはいわばバスの運転台を競っているような関係である。またそれぞれの人格は覚醒して独自の営みをするということが出来ない。いわば精神が用いることの出来るエネルギーが限られているため、ひとつの人格の覚醒は当然、他の人格が意識を奪われることをい意味するのだ。黒幕は、基本的に抑圧されているという原則と、怒りを抱えているという性質から、しばしば観察されるような性格を得るのであろう。
ここで攻撃者との同一化という防衛機制について、歴史的に考察してみる。この概念は、通常はアンナ・フロイトが提出したと考えられている。彼女の「自我と防衛機制」に防衛の一つとして記載されているからだ。(Freud, Anna (1936) The Ego and the Mechanisms of Defense, International Universities Press.) ところがフェレンツィの元の意味は、これとは随分違うという議論がある。フランケルという人の論文だ。(Jay Frankel (2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with
the Aggressor: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic
Relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.)
彼の議論に従ってみよう。アンナ・フロイトの本には防衛機制として出てくる。その定義としては次の様に書かれている。「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。(p. 113).」しかしこれはかなり誤解を招くし、そもそもフェレンツィの考えとは大きく異なったものだというのが、フランクルの主張であり、私もそう思う。なぜならフェレンツィは、子供が攻撃者になり替わる、とは言っていない。彼が描いているのは一瞬にして自動的に起きる服従なのである。「言葉の混乱」を少し追ってみよう。
彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。「ちがう、ぐいのものが直後の反応でしょう。ちがう、ほしいのはこれではない、激しす、ぎる、苦しい」といった恐ろしい不安によって麻揮していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。この心内部のものは、外傷性トランス状態にあるときに見られるように、夢と同じ具合に一次過程に従います。つまり快原理に従って形作られ、幻覚的に肯定的あるいは否定的な変形を受けます。いずれにせよ攻撃は確固とした外的現実としての存在をやめ、傷的トランス状態のなかで保ち続けることに成功します。子どもは、やさしさというかつであった状況を外傷的トランス状態のなかで保ち続けることに成功します。
不安による大人のパートナーとの同一化が子どもの心的生活に引き起こすもっとも重要な変化は大人の罪悪感の取り入れです。これによって、それまでは罪のない遊びであったものを、罰に値するいけないことだと思うようになります。このような打撃から回復したあと、子どもはひどい混乱を感じ、まったく無実と思いながら同時に罪を感じるという感情に引き裂かれ、自らの感覚が教えることへの信頼まで破壊されてしまいます。そこに追い打ちをかけて、良心の痛みから苦しみが高じて怒りにかられるまでになった大人のパートナーが冷たい態度を取るため、子どもはさらに深い罪悪感と差恥心に追いやられます。加害者はほとんどの場合何事もなかったかのように振舞います。こう思うことで自らを慰めるのです。「そうだ、これはほんの子どもじゃないか。なにも分っていない。すっかり忘れてしまうだろう。」こんな出来事の後で、誘惑者が過度に道徳的にあるいは信心深くなり、厳しくすることで子どもの魂を救おうと努めることさえまれではありません。(p144-145)
フェレンツィはさすがである。なぜなら現代的なトラウマの考え方をすでにほとんど先取りしているからだ。なぜそういうことができたのか?それは臨床素材をしっかり見ていたからだ。レーベンフックが光学顕微鏡を用いて観察を発表したのは1600年代の後半だが、もし100年前にその顕微鏡を手に入れた人がいたら、同じ植物の細胞の画を描いただろう。フェレンツィもすでに1930年代に、現在のトラウマ論者と同じものを同じレベルの心の顕微鏡で見ていたということになる。
私はフェレンツィのこの論文を部分的に訳してみて、何も付け加えることはない。攻撃者との同一化、取入れという考えは今でも生きていると思う。
フランケルはここで、攻撃者との同一化は二種に分かれるという。一つは攻撃者の主観的体験。もう一つは攻撃者が思い描く子供の体験。わかりやすく言えば、「いつもいい子でいろよ!」という体験と「僕はいい子だ」という体験である。これを Heinrich Racker の同調型と補足型の同一化という議論から説明するのだ。このことはトラウマを負った子供がなぜ攻撃的な人格を宿すかという人の一つのヒントを与えてくれると言っていいであろう。これに従うならば、アンナ・フロイトの意味の「攻撃者との同一化」は同調型の方だけを論じたものといえるだろう。
「攻撃者との同一化」という概念の持つ問題
ただし、私はここで一つ提言したいことがある。この概念は誤解されやすいということである。しばしば私も含めて誤解しやすいのは、このようにして解離の人の中に黒幕的な人格が形成されるということである。その可能性も否定はできないが、フェレンツィの言っていることを理解するならば、それだけとも言えない。言葉の混乱の翻訳の一部をここに再録しよう。「ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。
つまり、攻撃者の意のままになる、ということを言っているにすぎない。これは他者を攻撃する人格部分がこのようにして成立するということを言っているわけではないのだ。むしろ「あんたはお姉ちゃんでしょ。いい子でいなさい!」と言われて「いい子」になる子供に似ている。別に「攻撃者」でなくても、解離傾向の強い子供は同一化するのだ。やはり攻撃を受けた際に生じることは、私の「第3の経路」に従う気がする。
子供の取り入れの力はおそらく私たちが考える以上のものである。様々な思考や情動のパターンが雛形として、たとえばドラマを見て、友達と話して、物語を読んで入り込む。その中には他人から辛い仕事を押し付けられて不満に思い、その人を恨む人の話も出てくるだろう。子供はそれにも同一化し、疑似体験をするだろう。脳科学的にいえば子供のミラーニューロンがそこには深く関与しているはずだ。こうして子供の心には、侵襲や迫害に対する怒りなどの、正常な心の反応も、パターンとしては成立しているはずなのだ。つまり親からの辛い仕打ちを受けた子供は、それを一方では淡々と受け入れつつも、心のどこかでは怒りや憎しみを伴って反応している部分を併せ持つのである。子供が高い感性を持ち、正常なミラーニューロンの機能を備えていればこそ、そのような事態が生じるだろう。あとは両者を解離する傾向が人より強かったとしたら、それらは別々に成立し、一方は「箱の中」に隔離されたままで進行していくのであろう。実に不思議な現象ではあるが、解離の臨床をする側の人間に必要なのは、この不思議さや分かりづらさに耐える能力なのだろう。