2015年9月11日金曜日

精神分析におけるスペクトラム


私はこのエッセイで、私の理解するスペクトラム的な考え方として、ギャバードが呈示するような探索的-支持的なアプローチについてまず紹介し、それからスペクトラム的な思考と比較してより臨床的に有効と思われる弁証法的思考について紹介したい。
まず述べたいのは、伝統的な精神分析理論は、基本的には非スペクトラム的な体系であるということである。それはそもそもフロイト自身の考えに表されていた。フロイトは精神分析手な介入として「解釈 interpretation」を主体とし、彼の言う「示唆 suggestion」を含むそれ以外の(支持的な)アプローチとを区別した。そして前者を純金とし、後者を混ぜ物と考えた。こうして基本的に精神分析理論はそれが純粋な形で進められることを厳命したのである。
 しかし後の精神分析的精神療法一般の現実の在り方を見るならば、フロイトが「解釈」と呼んだものと「示唆」と呼んだものは多くの場合に混在しているという理解が主流になっている。その意味で精神療法における介入の在り方はまさにスペクトラム的である。そしてここに、精神分析プロパーは非スペクトラム的な介入を行い、スペクトラム的な思考は分析的な精神療法一般に当てはまるという考え方が成り立つ。言い換えればスペクトラム的でないことが精神分析のアイデンティティを保証するという図式が成立しているのである。
 ただし現代的な精神分析においては「解釈を超えた」関わりが論じられるようになっていることは言うまでもない。別原するならば、分析において革新的であることは、この厄介なスペクトラム概念を導入することになるのである。
しかし米国ではギャバードのような人物が分析的精神療法のアプローチとして介入のスペクトラムを挙げているのである。それは一方に純粋な分析的アプローチとしての解釈を含み、他方の極には勇気づけやアドバイスといった、フロイディアンなら耳にしただけで顔をしかめるようなアプローチが存在する。そしてこれは精神分析プロパーの立場にとっては極めて厄介な議論と言わざるを得ない。彼らのタスクは、非スペクトラム的な、解釈中心の介入をいかに正当化するかという責任を負わされているのである。それは患者の病態レベルであろうか?すなわち神経症レベルの患者には最左端の「解釈」を、精神病やボーダーラインには最右端の勇気づけを、であろうか?しかし神経症圏の患者に、支持的なアプローチが無効、ないしは有害であるというエビデンスはない。それを施さないおそらく唯一の根拠は「分析的でない」ということになるが、そうなると「分析的」であることの根拠が今度は問われることになり、ますます話は錯綜してくるのである。
私自身は分析的な療法を行っており、きわめてスペクトラム的と考えているので、それについて少し論じる。

スペクトラムというよりは「さじ加減」?

私はスペクトラム的に行っていると言ったが、もう少し言えば、臨床的には「さじ加減」という表現の方が近い。自分が発する言葉の多くは「これだ!」という正解ではなく、「こんな感じだろうか?」「こうではないか?」「ちょっと違うな」などと考えつつ、言葉を選んでいく。おそらく患者の方も、それに類似した、しかし治療者よりはるかに自由な言葉を発していることだろう。私の考える精神分析とは、患者と互いに行う思考の照合というところがあるのだ。
 この言葉を選ぶ、というプロセスをもう少し考えてみる。治療者側の発話も、基本的には自由連想的な部分がある。しかし治療者は自分が発しようとしている言葉に、ある種のスクリーニングをかけているのであろう。これから自分が発しようとしている言葉が、患者によって大きすぎる衝撃を生むかどうか、差別的な響きがないか、トラウマにならないか、私の興味本位ではないか、私の邪念が含まれていないか、構造を守り過ぎていないか、あるいは守らなさすぎているのではないかをチェックする。それは私が考えを歪曲して伝えているというわけではない。それらのスクリーニングを通した上での正直さなのだ。
このプロセスがスペクトラム的なのは、たとえばどこまでが私の興味なのか、どの程度差別的な響きが含まれるか、などはあくまでも程度問題だからだ。恐らくとてもトラウマ的で誤解を受ける表現から、ほとんど当たり障りのない表現までの幅があり、その中で選んでいるという意味では、確かにここにスペクトラムが絡んでくる。
たとえば患者が異性の友達のことを語る。そのような種類の関係なのだろう、と興味がわいたとしよう。その時「その人とはどのくらい親密な関係なの?」と聞くことは、私の興味に由来することは間違いない。しかしそこに踏み込むことは侵入的で、患者を不快にするかもしれない。あるいは「やはりこのセラピストは自分の興味本位で私の話を聞くんだ」という印象を与えるかもしれない。私はそのようなとき、幸いなことに母国語で面接をしていることを感謝する。そのおかげで頭に浮かぶ可能な沢山の表現の中から一番その時に手の届く表現を用いる。それは確かに「さじ加減」だし、そこにはどこからが侵入的で、どこまでが許される、という確たる境界がないという意味ではスペクトラム的なのだ。
しかしここで実はもう一つの重要な要素が潜んでいる。それは自発性と、予想不能性、ということだ。「どのくらい親密なの?」が自然とその関係性の中で生まれ、声に出した後も特に違和感を持たなかったとしたら、それは私が自発的に発したものであり、私はかなりの「簡易スクリーニング」でその言葉を発するかもしれない。それが彼に与える影響を本当は分かっていない。でもその反応は予想され、それが反発を買うなら謝り、相手からの抵抗感を感じたら「ちょっと深入りしすぎたかな」と反省をする。その反応が意外なものであり、例えば実はもっと話したそうだということがわかったとしたら、そこからまたかかわりが続いていく。自分の問いが相手にどのような反応を与えるかもしれないような形で波紋を起こそうとしているところがある。ここで相手の反応の予想不可能性は、相手の心に波紋を与えているという感覚でもあり、もう少し言えば相手の心が自分に波紋を与えたことへの反応でもある。さじ加減というよりは、どこからか浮かんでくる言葉をつかみ取っているというところさえある。そこでは相手が自分の心に与える反応の予想不可能性が一つの決め手になっていたりする。もちろんつかみ取ったものは「簡易スクリーニング」を通して声に出すし、多くの場合は言葉を飲み込むこともあるだろう。

自発性、予想不可能性と弁証法との関連

そしてここでまたヤヤコシイ話になってしまうが、ここに潜んでいるのが、治療者のアプローチの弁証法的な性質なのだ。一方で治療者は患者を守り、トラウマになりそうな発言を控え、治療構造を守ろうとする。しかし同時に治療者は人間であり、患者にとっての隣人であり、また好奇心や自己愛的な願望も備える。その二つの対立した力の間を動いているのである。もちろん治療者は興味本位で患者のプライバシーに立ち入るべきではない。しかし人間としての好奇心を持ち、その行動に予測不可能性が伴うのは、治療者が生きた人間であることを意味し、患者もその「生きた人間」に会いに来ているのである。
ホフマンが「儀式と自発性」の中で説いている弁証法的構成主義とは、分かりやすく言えばそういうことだ。その際両方の曲を意識していることで両者の間のバランス、「さじ加減」も生まれてくるのである。そもそもさじ加減をするには、いくつかの候補が必要である。そのうえで「これはちょっと侵入しすぎかな」「こっちの方がいいかな」という判断を下すことが出来る。しかしそもそもの言葉の候補はどこからくるのだろうか?それは弁証法的な緊張関係の中から、無意識がつむぎだしているのである。