2015年9月13日日曜日

治療の終結 (1)

 オトナの事情は常に予想外のところからやってくる。心理療法の終わりについて、少し文章をまとめる必要が生じた。そこで最初は自由連想である。
 治療の終結はなぜ起きるのか。患者の側に治療に来るだけの動機付けがなくなること。結局はそういうことだ。それが計画されて行われると終結。それが一方的に終わると中断、と呼ぶ。
 しかししっかり計画された終結は、いったいどれほど起きるのだろうか?人それぞれであろうが、心理療法に限ってはインテークした人の半分以上がドロップアウトしてしまうと考えていいだろう。ビギナーの場合には、三分の一残ればいい方ではないか。
 特に紹介されたのではなく、広告などを見ていきなりカウンセリングを求めてやってきた人のドロップアウトはかなり高率で生じる。カウンセリングとはこういうもの、という想像と実際とがあまりにかけ離れている場合だ。
 一番起きやすいのが一回目。場合によっては治療者と対面してものの5分したら、患者側はもう二度と来ないことを決めていることもある。「あれ?思っていたのと違う…」しかしそれを少しも表現せず、場合によっては次回の約束までしておいて、そして・・・・その「次回」に訪れないのである。
私が一番多く経験したドロップアウトのパターンをお示ししよう。それは治療が始まってあまり時間がたっていない時期に起こりやすい。もう何年も治療が続き、患者さんにとってもそれがスケジュールに組み込まれている場合には、ドロップアウトは簡単に起きないものだ。
 まず第一回目は、最初の兆候。風邪をひいたということで電話が入りキャンセル。次の回は理由もなく、キャンセルの連絡のみある。そしていよいよ3回目はノーショー。no show とは特に連絡もなく、ただその時間になっても現れないことである。それまでにやめるような話は具体的には出ていない。お互いに治療が続いていくつもりでいる。しかし患者の側では、動機づけがかなり前から少しずつ減っている。でも治療者に対して申し訳ないから、それを言い出せない。そして最初は風邪、ということでキャンセル。少し胸が痛む。二回目は理由も言わずにキャンセル。患者は治療者に暗黙のメッセージを読んでほしいと思う。そしてノーショーは明らかな意思表示だ。
ただしこの3段階パターンは長年続いたケースでも生じる可能性はあるだろう。この場合も明らかに終結の話をしない。しかしお互いに「そろそろかな?」という気持ちがある。そのうち「風邪」で休みがちになり、いつかはノーショー。私はこれをあまりドロップアウトに勘定したくない。ある意味ではお互いに暗黙のうちに、そうと明確にしないで終結をしたわけである。ではどうして明白に終結の話をしないのか?それはおそらく別れのプロセスがそれだけ話しにくく、話題にすることに抵抗があるのだろう。それに終結は必ず、一方の方が他方より継続のモティベーションをより保っていることになる。すると片方には罪悪感が、もう片方には見捨てられ感が伴わざるを得ない。これもまた口にし難いのである。
はっきり言って、ケースのドロップアウトは、これほどセラピストにとって自己愛を傷つけることはないのだ。だからよほど余裕がない限り、これを患者さんと正面から話すことが難しい。そして多くの患者さんは治療をやめることに後ろめたさを感じ、こちらもまたそれを話題にしにくいのだ。
これを書いていると、私は患者さんにドロップアウトされた記憶ばかりよみがえる。20年以上前、米国の精神科のトレーニングで、精神療法の臨床実習があった。週一度のセッションに通ってくるケースをいくつか持たない限り、トレーニングが先に進まないし、卒業できない。ところが私のところに来てくれる患者さんがなかなか見つからない。このケースこそは、と思っているケースとの約束の時間が迫ってくる。時計とにらめっこをする。5分経過。まだ現れるかもしれない。10分。もう無理か。やっぱり自分はセラピストとして選んでもらえなかった・・・・失望が心に広がっていく。第二回目からいきなりドロップアウトなら、まだ救われるというところがある。「もともと縁がなかったんだ…」しかし数セッションが経過し、そろそろラポールが出来始めていると感じ、自分のケースとしてカウントし始めるころになると、そこで突然現れなくなるケースは、トラウマである。

ケースをある程度経験し、ケースの中断という事態をある程度客観視できるようになると、また違うのである。しかしイニシャルに近いケースだと、すべては自分を責めることにつながる。しかも「何が悪かったのか?」の決め手がない。強いて言えば、すべて悪かったのだ、ということになる。初心のセラピストはこうしてますます自信を失っていく。私はそのようなセラピストが救われる唯一の方法は、自分を選んでくれる患者の登場であると思う。