2015年9月10日木曜日

精神分析と倫理の問題

精神分析において倫理の問題を考えるのは、実は最優先の問題なのだ。それはもっと言えば精神療法そのものを議論する前に、あるいはさらに広げて言えば、そこに力の差が関係するようなあらゆる活動について、その前提として論じられるべき問題なのである。
 考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積んだ治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?あるいは治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
 「治療者が患者の利益を差し置いて自分のために治療をすることなどありえない」、と考える方もいるかもしれない。しかし基本的には治療的な行為は容易に「利益相反」の問題を生むということを意識しなくてはならない。「あなたは治療が必要ですよ。私のところに治療に通うことを勧めます」には、すでに色濃い利益相反の要素が入り込む可能性がある。

倫理的に要求されるもの

私が留学していた時、最後のスーパーバイザーは少し変わっていた。彼はかなり厳格なフロイディアンだったが、シカゴにコフートセミナーを受けに行ってから、考え方を変えてしまった。そしてメニンガーで唯一のコフート派になっていた。彼はそれまでの分析の常識を覆すようなことを平気で言うようになった。最後の方はバイジーの私に断言していた。「ある意味では、分析家は倫理的に問題ないのであれば、何をやってもいいということになる。」私は一瞬「あれ?」と思い、一生懸命それを反駁しようとした。でもそれから15年くらいになるが、結局彼の言ったことは正しいのである。しかしこれは同時に極めて重要なテーマを投げかける提言でもある、ということだ。「常に自分がやっていることの倫理的な意味を考えよ。」「非倫理的なことであれば、たとえ分析の教科書に載っていてもやるべきではない。」それ以来私はこの問題を考え続けているのである。


近年医療に関しても、サービス産業にしても、消費者ないしは受益者、英語ではconsumerと呼ばれる側の人たちをいかに守るかということが重要な課題となってきている。精神療法においても、患者の利益が最優先されるべきであることは論を待たない。治療の原則がいかにあるべきかは、医療の倫理性の追求と歩調を合わせなくてはならない。
いったいこの受益者優先の考えはどこから来たのだろうか?それはあまりに明らかなことだろう。それはサービスを受ける側であるコンシューマーたちが声を上げるようになったからだ。時代は明らかに一つのベクトルを持っている。それはあらゆる意味での差別や格差を撤廃するという方向性であり、平等主義である。もちろん局所的に見れば、差別やそれに基づく虐待が増加したり悪化している共同体もあるだろう。女性を奴隷扱いするISISなどはその一例かも知れない。しかし全体的な流れとしては明らかにこの平等主義に向かっているし、もちろん我が国も含めていわゆる先進諸国においてはそうである。そしてそれは精神分析の分野についてもいえることだ。私たちが紹介している関係精神分析においても、そこにあらゆる学派に属していたり、異なる資格を有している人たちが集合している以上、そして多くの人権論者やフェミニストたちが属している以上、その傾向は特に強いといえるかもしれない。患者にとってフェアであることはその基本的な精神としてあるわけだ。
平等主義のもう一つの推進力、それは訴訟である。権力を持つ側が、それに伴う力の濫用を自ら反省し、襟を正すことは通常はありえない。力の濫用は被害をこうむった人々からの声により正されていく。ただし被害者は人類が始まって以来つねに存在していた。その声を無視しないだけの社会の成熟が必要だったと言える。
歴史的にはチェストナットロッジを巡る訴訟問題などが精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった経緯がある。それをきっかけとして生まれたインフォーム・ドコンセントの概念は、ある意味では古典的な精神分析理論とは全く対立的なものだったのである。私はこれは精神分析理論が受けるべくして受けた洗礼であると思っている。
その結果として出来上がったのが倫理綱領である。アメリカの精神分析協会といえば、最も保守的で伝統を重んじる機関のはずだが、そこで定められている倫理規定は決して「フロイトの唱えた基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」という事ではない。そこにはむしろ「治療者は新しい理論の流れにも目を向けていなくてはならない」という趣旨のことが書かれてあり(Dewald, Clark, 2001)、あたかも「伝統的な分析療法の原則に固執しないように」と言っているかのようなのだ。また「治療者は自分がトレーニング中であれば、そのことを患者に明かさなくてはならない」などという、伝統的な分析家達が聞いたら眉をひそめるような内容もみられる。つまり治療者は匿名性を守るどころか、自分がどのような教育を受け、スーパービジョンを受けているかさえ、必要に応じて積極的に明かす必要があると、米国の精神分析の学会自体が定めているのである。


患者は治療者の倫理性を真っ先に感じ取るものだ

他方これを体験する患者の側を考えたらどうだろう? 私の考えでは、実は治療者の倫理性は、患者が感じ取るものであると思う。ホフマンの言う治療者の側の同じ人間としての極というのは、実は患者の側が感じ取る。「この治療者はいつも黙っていて能面のようだけれど、私の話を真剣に聞いてくれている」「この分析家はポーカーフェイスだけれど、それは分析がそういうものであって、本当は良心的で誠実な人だ。」もしそれがなかったとしたら、患者はどうやって治療を続ける事が出来るだろうか?唯一の可能性があるとしたら、それをどこかで心地よく思っているマゾキスト的な部分が関係しているのではないか。


身近に出会う倫理性の問題の例1 インフォームドコンセント

治療者の側の倫理としてまず関わってくるのが、昨今議論になる事の多いインフォームドコンセントであり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。インフォームドコンセントが何を意味するかは皆さんご存知のとおりだ。患者さんに治療の選択肢としてどのようなものがあるのか、それぞれについてどのような効果が期待され、それに伴うリスクはどのようなものか、などを説明した上で、特に勧める治療に合意してもらう事である。そしてその前提となるのが、患者さんの病気や障害についての見立てを行い、その情報を開示し、必要に応じて心理教育を行なうことだ。これらのことをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。

身近に出会う倫理性の問題の例2 症例発表の承諾

ギャバードがこれについて述べている。

10(「スーパービジヨンの使用」)に記したように, このアプローチの主要な欠点には,治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということやそのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということがある。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(長期力動的精神療法p228

このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。さりとて症例提示を失くすことは、分析家としてのトレーニングや学術交流のためにありえないことを考えると、この問題については私たちが語るまいとする力が一番強いのかもしれない。

精神分析の基本原則を遵守することの倫理性

この問題についてはこれまでに幾度か触れてきた。簡単にそれをまとめるならば、それはフロイトが提示した匿名性、受け身性、禁欲原則などは、それをかたくなに守ることは倫理的な問題があるということだ。これらの原則はいずれも相対化されなくてはならない。そこでそうすべきであるということは、精神分析のテキストにも、倫理綱領にも記されていないのである。その代り、精神分析をその一つの可能性として含んだ、より汎用性のある治療を考えた場合、この倫理の問題は、より直接的にかかわってくるという点である。すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野、2012a,2012b)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。それらは分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている(Dewald, et al 2007)
これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における、匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。

関係性精神分析における倫理性―分析の構造自体に内在化されたものとして

 倫理性の問題は、関係精神分析における関係論そのものの基本概念ともつながる。ホフマンは、精神分析における分析家の権威主義は、しかしもう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、その両面を持つことに意味があるという。その意味で、分析家のかかわりは、患者が幼少時に持つ事が出来なかった母親との関係の代用に過ぎないという。彼の文章を引用しよう。

しかし私たちは分析家が限られた予定時間内の料金による関係の中で、早期の情緒的な剥奪を補ってくれることをどの程度期待出来るのであろうか? それは実際に、現実の世界における誰かとの良好で親密な関係の、まさに不出来な代用でしかないようであり、ましてや神との信頼すべき関係のようなものではないのは言うまでもない。そして確かに精神分析には、支払う側の方が支払われる側よりも援助を必要としかつ傷つきやすいという側面があり、それは最適とは言えず、有害で搾取的でさえあるという言い表し方も無理からぬ側面がある(第9章と第10章を参照)。しかしその不満で頭がいっぱいになっている患者は、おそらく分析の外で親密な関係を築く上でも同様の不満を持つことで、ハンディキャップを負っているであろう。結局それらの親密な関係も、両親像との早期の理想的な結びつきの空想にはかなわない限り、不出来な代用として経験されるであろう。こうして分析的な関係の持つ目を覆うべき限界にもかかわらず、その価値を評価して高めていく方法を見つけられる患者は、他の関係性についても、それを受け入れて最大限に活用したりするためのモデルを作り出していくであろう。(ホフマン「儀式と自発性」第一章)

つまり精神分析における治療者患者関係それ自体が、分析家の権威主義にこうする形での平等主義を内在化したものとして説明される。分析家の態度が権威により引っ張られる傾向にある分だけ、分析家自身の持つ倫理性はより大きな意味を持つということになる。

他方関係精神分析は、この倫理則とどう関係しているのだろうか?これらの療法は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の最大の利益の保全にかかっているとすれば、「汎用性のある精神療法」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを今後とも考え直す必要があるが、「汎用性のある精神療法」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が期待されるのである。