自然消滅の特徴は、クライエントの側に、「治療者とはいざとなったらまた会える」という気持ちがあるのだろう。実際に数年たって人生の新たな危機を迎えた際に、姿を表すこともある。以前の治療で積み残した問題が新たに浮上することもある。このような形で時々接触が行われることは、心理療法を生業としている治療者にとっても必要なことなのである。
私はこの種の自然消滅的な終結を考えた場合、親子関係を二重写しにしている。あれほど濃密な時間のなかで、あれほど親を必要とされ、そのために自分の存在がこれほど求められるのだということを自覚させられた子供との関係が、ある時期からどんどん遠ざかっていく。気がつくと子供は自分たちを必要としていないどころか、ことさら遠ざかっていこうとするのである。あたかも自分の世界を築くためには、親との関係はかえって足かせになるとでも言わんばかりに。
ところが子供の方も親のほうも、関係が終わったとは露ほど思っていない。子供の方は、「今はとりあえず必要ない。でもいずれはまた帰っていくだろう。」程度の気持ちはある。親のほうも「今は自分の人生で精一杯なのだろう。でもやがて帰ってくるだろう。」実はその「帰っていく」は盆暮れや法事程度なのだ。それこそ親の臨終のときでなければ、あるいはそのときになっても「別れ」は告げられない。それどころか、親の側が「私ももう長くは…・」とでも言いだそうものならば、「何を言っているの?」とすぐにでも否定されてしまうのがふつうである。
ところが子供の方も親のほうも、関係が終わったとは露ほど思っていない。子供の方は、「今はとりあえず必要ない。でもいずれはまた帰っていくだろう。」程度の気持ちはある。親のほうも「今は自分の人生で精一杯なのだろう。でもやがて帰ってくるだろう。」実はその「帰っていく」は盆暮れや法事程度なのだ。それこそ親の臨終のときでなければ、あるいはそのときになっても「別れ」は告げられない。それどころか、親の側が「私ももう長くは…・」とでも言いだそうものならば、「何を言っているの?」とすぐにでも否定されてしまうのがふつうである。
別れや喪失体験の回避とも限らない
なぜ自然消滅なのだろう? なぜなら別れには決して明確な「区切り」はないからだ。関係は心の中でつながっているからである。あとはごくたまに顔を合わせて、あるいは墓前で手を合わせて「確かめる」だけでいいのである。だからお別れや終結の方が実はかりそめで、ずっとつながっているというのが真実なのである。これは別れの否認や喪の作業の回避なのだろうか?どうもそうにも見えないのだ。
こう言うことには少し勇気がいるのだが、敢えて言うならば、人間はある時期が来れば、別れている方が、よい関係を持てることが多いのである。安定した穏やかな関係は、距離のある関係である。距離を持ちつつ、心の中ではお互いを考えているのだ。臨床家ならわかるだろう。過去に出会ったケースで頭に時折浮かんでこない人はいるだろうか?私はいつも回想の中で出会っているし、対話をしているのだ。それは別れ方によってはほろ苦いものになるかもしれない。そしておそらく向こうもそうやって出会っている。人との関係がそういうものである以上、別れは言葉では言わないものである。あるいは言ったとしても必ず「いつかまた会いましょう。」私はこれは特に別れや喪の作業の否認とは思わないのだ。
とすれば終結とは、常に起きうるし、毎回起きている種のものであることがわかる。いつも「これで終わりかもしれない」ことを言語化しないものの、その覚悟で会うのだ。こうなるとドロップアウトすらも終結ということになる。