2015年9月15日火曜日

治療の終結 (3)


一番多い「自然消滅」のパターン

私は通常の、取り立てて精神分析的な構造を持たない心理療法に関して、それがどのような終わり方をすることが多いのかについて少し描いてみたい。
私は数多くの心理職の方々の心理療法を担当したが、彼女たち(女性の方が多いのでこのように呼ばせていただく)がドロップアウトするということは、まず考えられない。彼女たちはきちんと終結の予定を立て、そのためのワークを行い、そして去っていく。それにはそれなりの理由があるのであろう。彼女たちが心理職として心についてのワークを積み、治療のプロセスについてもその意味を自覚し、起承転結をわきまえている可能性があるだろう。また臨床心理職にあり、ドロップアウトの持つ破壊性を身をもって十分に承知している彼女たちが、それを自ら行うことには大きな抵抗が伴うということもあろう。また狭い業界であるから、いずれは治療者と別の機会で顔を合わせることも多く、そのことを考えればあまり失礼な終わり方は出来ない、という思考が働くかもしれない。
臨床心理士でもある患者は、終結の仕方が治療関係全体から見た場合にどのような意味を持っているかについても意識しているであろう。抵抗やアンビバレンス、場合によってはアクティングアウトに満ちた終結のプロセスを自らが辿ることへの抵抗はかなり大きいと想像できる。
それに比べると一般のクライエントの終結の仕方はずっとそっけなく、また自分本位(いい意味を含む)であることが多い。彼らはそれほど、あるいはまったく「きれいな終結」を意識しないであろう。そこにはむしろ現実的な事情が働き、偶発的でより自然な形での終結、私が「自然消滅」と呼ぶプロセスがかなり多く見られる。こちらのプロセスについて考えたい。ただしこのプロセスについて述べる際に、治療構造がある程度明確に定められている精神分析療法などはそれに該当しないことになる。一般の精神療法プロセスにおいて生じることと考えていただきたい。
冒頭で、「治療の終結は、クライエントの側に治療継続の動機付けがなくなるから」と述べた。即物的な言い方ではあるが、その真意を汲み取っていただきたい。クライエントは治療の継続する一定の期間を通じて、治療者から「何か」を受け取るのだ。それは人生の難しい局面に差し掛かっているクライエントへの、洞察的な介入かもしれないし、治療者のある種の情熱かもしれない。治療期間を通してクライエントは治療者からその「何か」を受け取り、それなりの満足を得るだろう。それと同時にクライエントは不満をも持つはずである。「こんなもんだろうか?」「これではまだ不十分なのだが」「もうこの治療者からは無理かもしれない。」「もちろん精一杯やってくれたことは感謝しているが・・・。」などの気持ちを抱くこともあるだろう。そして治療者の側も、「自分はもうすでに力を尽くした」や「もう伝えるべきものは伝えた」という感覚、あるいは「自分には力不足だった」という思いがありうる。その結果として「もう自分以外の誰かに託したい」とか「そもそもクライエントが安くない料金と貴重な時間を費やして通ってくるのに見合うだけのものを自分が提供できていないのではないか?」とか「もうクライエントは独り立ちをすべきだ」などとも考えるであろう。
 この治療者とクライエントの思いは、通常はある程度通じ合うものなのだ。こうして両者はおおむね歩調を合わせて終結の方向に向かう。そしてここが「自然消滅」の特徴なのだが、このプロセスは普通、それについての話し合いや言語化なしで行われることが多いのだ。あるいはたとえある程度の言語化が行われたとしても、それによっては触れられないプロセスが、非言語的に進行する。その良し悪しは別として、現象としてそのように進むことが多いのだ。

そのようなドロップアウトでもない「自然消滅」の実際の起こり方はどうか?上に述べたとおり、治療動機の低下自体は、あまり口にされない。そのかわり徐々にキャンセルが増えていく。毎週から隔週へと、セッションの間隔があいていくという形をとることが多い。一セッションごとの料金が高く設定されている場合には、この頻度の変化はかなり明確な形でその動機の低下を反映しているであろう。ただしこれには患者の仕事やスケジュールの変化がその間接的な根拠が絡んでいたり、治療者の側の都合が重なっていたりする。そしてふと気がつくと、12ヶ月ほど、あるいは半年ほど会っていないということが起きてくる。