2015年9月17日木曜日

カウンセリングの初学者に向けて(1)


初学者の陥りやすい思考

 私たちはいつの年代でも、初学者としての経験を持つ可能性がある。趣味や学問で新しい分野を開拓する時、あるいはまったく新しい職場環境に入る時、私たちは右も左もわからない状態、ないしはそれに近い状態になる。
そしてその状態で陥りやすい思考がある。そこでおそらく助けになるのは、初学者として陥りやすい思考、行動パターンをあらかじめ知っておくことであろう。そのうえでカウンセリングの初学者に対してどのようなアドバイスが可能かを考えたい。
さて、右も左も分からない、という状態を言い表すなら、「何が分からないかも含めて分からない」という状態である。そのような状態で通常考えるのは、これから自分が学ぼうとすることにはある種の正解が用意されているということである。あるいは正解はないとしても、専門家の間で何らかのコンセンサスが成立しているはずだとは考えるであろう。そして初学者は、その正解を、ある種の手続きを踏むことで学ぶ手段があるのであろうと考える。
 初学者はまた、少しでもその専門分野に経験がある人は、その正解に一歩近いと考える傾向にある。のであり、自らの知識や経験が不足しているために判断できないことに関しては、その先達の言うことが正解であると考えるだろう。
このような思考のもとに出発した初学者は、徐々に自らの経験値を蓄え、自分がどこまで分かっているのか、何を分かっていないのかを知るようになっていく。そしてその世界で正解と呼ばれるようなものは少なくとも自分が考えていたほどの明確な形では存在しないのだということを分かっていく。
さてカウンセリングの場合も、それは同様であろうと思う。ただしこの世界にはそれなりの特徴があることも知っておいたほうがいいと思う。一つには、カウンセラーの中には、「正解」を握っていると考える人も多いということだ。カウンセリングは多くの種類があり、学派がある。それぞれが用いる技法も異なる。それらの人の多くは「これが正解である」という確信を持っている可能性がある。そしてその正解に至る手続きも存在すると考えている可能性がある。
さてかく言う私もその例外ではない。私もある種の正解があると思い、それをことあるごとに伝えているのである。何とならば、カウンセリングには「正解がない」という言い方も、ある意味では正解をそのような形で提出していると思われても仕方がないからだ。
そう、こう論述している私も結局は私の信じる正解へと読者を導こうとしているのだ。たとえ「正解がない」という少しややこしい「正解」であったとしてもである。
さて私はそれを以下の3つに分けて示したい。それらはいずれも、皆さんが最終的に(私の考える)誤った正解に行き着かないための方便なのである。

1.倫理を学び、あとは自分で判断せよ

2.明確化と共感専門でいくべし

3.自然さを追求せよ。
  
1.倫理について学び、後は自分で判断せよ
精神療法に唯一の正解があるとしたら、それは倫理に正しい方策が、選ぶべき道である、ということだ。技法としては様々なものが考えられる。しかしこれらの試みを底辺で支えているのが倫理の問題であると考える。治療論は、倫理の問題を組み込むことで初めて意味を持つのである。考えてもみよう。様々な精神療法に熟知し、トレーニングを積んだ治療者が、実は信用するに足らない人物であるとしたら、どのようなことが起きるだろうか?あるいは治療者があらゆる技法を駆使して治療を行うものの、それが治療者の自己満足のための治療であったら?
このような問いを発しただけでも、実は倫理の問題はカウンセリングを行うことそのものの中で最優先されるべき問題であることがわかるだろう。
 
すでに別の個所でも論じたことであるが(岡野、2012a,2012b)、精神分析の世界では、理論の発展とは別に倫理に関する議論が進行している。そして精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっているのだ。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 ここからは私になじみのある精神分析の世界の話になるが、歴史的にはチェストナットロッジを巡る訴訟問題などが精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった経緯がある。
2007年に作成された米国精神分析学会の倫理綱領には、分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている(Dewald, et al 2007)
これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが精神分析における、匿名性、禁欲原則などの「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
  このように考えると、いたずらに精神分析の教えに従うべきではないということを、分析学会の倫理綱領自体が言っているようで興味深い。