2015年8月31日月曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 20/50)


 最後は少し書き足した

10章 医師という自己愛者

米国にいるとき、次の様な話を聞いた。「医者とナルシシストとは同義語synonym である」。きわめてシンプルな表現だが、これはよくわかる。医師は自己愛的で人の話を聴かず、傲慢であることが多い。米国も日本もこの事情は変わらない。米国では患者に対する丁寧な接し方は教え込まれているものの、元々のベースラインが自己愛的な方向にずれているから、結局日本と変わらない気がする。
 もちろん例外もたくさんいる。人の話に耳を傾ける、人間的で心優しい医師だっているだろう。でもやはり圧倒的に自己愛的な人間が多い。
 私は精神科医だが、外来で聞く患者からの、彼らのかつての主治医に対する言葉は、ほとんど常に辛らつである。「前の先生は、ろくに話を聞かず、一方的に自分の考えを伝えてきました。」「薬について質問したり、治療方針に注文をつけようものなら、露骨に不機嫌そうでした。」あるいは患者の方をむいてきちんと話をしない、目を合わせないなど。はっきり言って医師に関するいい評価はほとんど聴いたことがない。
もちろん患者さんたちが、元の主治医を悪く脚色しすぎている可能性も否定はできない。そして同様のことを、彼らが私のもとを去った時には、今度は私自身にもそのようなコメントをするかもしれないと思うと、しかし彼らの訴えは真摯なものと受け止めざるを得ない場合が大半なのだ。
医師は患者としては非常に扱いにくいということもよく知られている。特に精神科病棟に入院してきた医師、そのなかでも精神科医は扱いにくい。精神科医が精神科に入院することがあるのか、と思われるかもしれないが、もちろんある。

 私ははるか昔、メニンガークリニックでその体験を持った。メニンガーには、PIC病棟(Professional in Crisis 危機状態にあるプロフェッショナル)というのがあり、うつ病や薬物依存に陥った医師たちが多く入院していた。メニンガークリニックはカンザス州の田舎町にあったから、地元の州の人々の目を避けて、はるばるやって来てお忍びで入院するケースがよくあったのだ。当時の私はまだ30歳代のレジデント(研修生)の身だったが、40代の白人女性精神科医の主治医となった。彼女はアルコール依存とうつ病を持ち、仕事が続けられなくなって入院してきていたが、彼女の態度にはとても悩まされたのである。彼女は外国人で不慣れな、自信のない私の立場を見透かし、馬鹿にし、さげすみの目を向けた(もっとも私の方もそのように感じやすかったことはあるだろう)。アポイントメントの時間になっても私のオフィスにきてくれない、迎えに行くと自分の部屋で寝ている、ということが繰り返されたり、病棟で呼びかけても気がつかないふりをしたりする、ということもざらであった。面接をしても顔をそむけて退屈そうな顔をする。ろくに返事もしない、病棟での活動にもしぶしぶ参加をするだけ、あとは自室で不貞寝をしていることが多い、という様子である。しかし私のスーパーバイザー(50歳代、白人女性の精神科医)には急に態度を変え、丁寧な接し方をするので腹が立った。
この女性患者の日常の仕事は、自分と同様の問題を持つ患者の診療をする立場である。その自分が精神科の患者として入院を余儀なくされたことにプライドが痛く傷ついていた可能性はある。そのせいか病棟でも「自分は他の患者とは違うんだ」というオーラを一生懸命はなっていた。自分の境遇のふがいなさを、自己愛的な振る舞いにより隠していたのである

どうして医師に自己愛が多いのか。人の命を救う重要な仕事についているからか?しかし医者が丁重に扱われるといっても、それは最近の話だ。大河ドラマの「花燃ゆ」に久坂玄瑞が出てくる。彼はかつて医者の修業を行ったが、「医者風情」とか「医者坊主」などと呼ばれている。もともとそんなものだったのだ。それが現在では医師免許を持っていることは一種の特権扱いをされる傾向にある。しかし人の命を預かっているとしたら、バスやタクシーや電車の運転手さんはもっともっと尊敬されてもよくないだろうか?
狭き門を、難しい試験を潜り抜けたから偉いのだろうか?でも現代の日本なら獣医になる方が、よほど狭き門のはずだ。しかし偉そうにふんぞり返っている獣医さんなんて聞いたことがない。
結局医者のナルシシズムの理由は私にはよくわからない。しかし態度が横柄で傲慢な医者の話を聞くことには事欠かない。なぜだろうか?
ここでふと考えた。彼らがナルシシストのようにふるまうのは、患者さん、そして看護師さんの前に、比較的限定されるのではないか。彼らはそれ以外では、案外普通の人々ではないか? そういう意味で昔や今の同僚のことを思い浮かべてみる。といっても主として精神科医だが仲間同士での付き合いで、精神科医たちが特別横柄で自己愛的という印象は受けない。日本精神神経学会という巨大な学会に年に一度出かけるが、そこに集まる数千人の精神科医に交じっていても、特別異常な人間の集団に交じっているという印象はない。皆ふつうの言葉で穏やかに、あるいは楽しげに談笑している。会場係の人たちともごく普通に、あるいは丁寧に話している。
 医学部の同窓会というのに一度だけ出かけたことがあるが、50歳代に差し掛かった昔の同級生たちは、最初はどこかのおやじの集団に見えたが、しばらく一緒の時間を過ごすと20代の学生の頃と全然変わらない雰囲気を残していることが分かった。しかし彼らが現在の職場に戻り、多くの場合部長や教授や医院長としてふるまう際には、全然違うのだろうな、という想像も容易に出来た。昔が想像できないほどに恰幅がよくなっていたり、パネライの大きな腕時計などをしていたりする。交換する名士なども、肩書は立派なものだ。おそらく彼らが自己愛的なのは、患者さんや、自分の指示の下で動く看護師さんたちの前におおむね限定されるのであろう。
医師がなぜ患者さんの前で自己愛的になるのか? そこにはおそらく患者さんの置かれた立場に対する彼らの相対的な立場が関係している可能性がある。自分の体や心に異常が生じた場合、人は簡単には相談できず、誰かに助けを求めてすがりつきたいような、きわめて弱弱しくヘルプレスな精神状態に陥る。検査を受ける時には下着すら脱がされ、情けない検査着姿で、寒い廊下で順番を待ったりする。検査結果に一喜一憂する。その前に立ち、診断を告げる白衣の医師は、やはり絶対的な権力を持った人間として映ってしまうのだ。そして医師の方もそれをよくわきまえている。
ところで読者の中で「ナルシシストな医師というのは、男性に限った話ではないか?」という勘違いをなさっているかたもいるかもしれない。しかし女医さんでも事情はあまり変わらない。ただ日本においてはナルの表れ方もそれなりに異なるだろう。というのも女医さんの立場は多少男性の医師と異なることもあるからだ。
 医師の世界は伝統的には男性社会であったということもあり、女医さん自身が堂々と振舞うことに抵抗を感じたり、圧倒的に数の多い看護職の女性たちから複雑な目で見られたりすることを意識せざるを得ない。しかし基本的には実力社会である医療現場で、十分な技量と経験ないし人望を備えた女医さんは、それなりのリスペクトを受ける。そしてそれにしたがって彼女たちの心の持ちようや態度は、自己愛的な要素を高めていく傾向にある。思い出していただきたいのだが、自己愛とは社会がその人を丁重に扱ったり、その人が実質的な権力を有することにより、ある程度自然と備わっていくものである。偉くなった人が少しも自己愛的でない、というのは不自然なことですらある。
 私がかつて外来を担当していた精神科は、大きな総合病院の中にあるが、私のオフィスにたどり着くまでにさまざまな医療関係者が行きかうのに出会う。エレベーターに乗ると、白衣を身につけた女性でも、看護スタッフであったり、検査技師であったり、医師であったりする。そのうち女医さんたちが、それなりの雰囲気をかもしているのは、見ていて興味深かった。それをあえて特徴付けるならば、彼女たちが「着崩している」ということだろうか。彼女たちは白衣のボタンを一つ余計にはずしたり、あるいは白衣の前のボタンを一つもはめずに、白衣を「翻して」颯爽と歩くことになる。あとはポケットに無造作に手を突っ込んでいたり、ちょっとツンとすました表情をしていたり。首の回りに聴診器を巻いていたらもう間違いないか。(時々ナースもやるようだが。)要するに彼女たちはちょっとだらしなく、ちょっとエラそうでナルシシスティックな雰囲気を作ることで、女医「以外」の女性との差別化を図っているというニュアンスがある。
ここで「大門未知子」のことを思い出す。例の「ドクターX~外科医」というテレビ番組に出てきた、米倉涼子演じる、フリーの「失敗しない」手術の天才の外科の女医である。検索すればわかる通り、やはり白衣の前のボタンを全部はずした画像しか出てこない。医師が白衣の前を空けているのは定番だが、女医さんもこれをやることで女医っぽくなり、ナルっぽくなるのである。
なぜダラしなくなるとそれだけ偉そうになるのか。例のサルのMRI画像の話を思い出していただきたい。上位のサルは前頭葉が忙しく働いていない。つまり「自分の態度が誰かに対して失礼に当たるのではないか?」と周囲を見ながらせわしく頭を働かせる必要がないのだ。自分の身なりや態度に「手を抜いて」いい。自室で気楽に過ごしている姿に近くていい。だからダラしなくていいというわけである。
というわけで女医さんもしっかりナルになる可能性があるということを主張したかったわけだが、では男性医師と女性医師でどちらがナル度が高いか、などという疑問にはあまり意味はないかもしれない。どっちもどっちであり、どちらも相当周囲を困らせる自己愛者になる可能性がある。

ナルな医師が困る理由

医師がナルになること自体は、ある程度は仕方がないだろう。しかしそのせいで患者に迷惑がかかることは止めてほしいものだ。患者の多くは医師を怒らせたらどうしよう、という恐れのようなものを抱き、その顔色を伺いながら医者の前に座るものなのだ。
 例えば処方された薬が多すぎたり、副作用がキツイと感じるとしよう。そしてそれを遠慮がちに口にする。医者がそれをきちんと受け止めて、処方の量を検討してくれるのなら、もちろん問題はない。しかしそれに対して医師の側が「余計な口出しをしないでほしい」というような態度を取るとしたら、それは大きな問題である。そのような医師なら、おそらく「誰かから、Aという薬がいいと聞きましたが、どうでしょう?」という患者さんの問いかけにはもっと憤慨するかもしれない。
「あなたは医者じゃないんだから。あなたが何を飲むべきかは、私が決めるんですよ。」という返事が返って来るとしたら最悪だろう。そんなことを言う医者がいるかと思うかもしれないが、一昔前の医者の多くはそうだったのだ。ちなみに英語では、“You are the doctor”といういい方がある。アメリカで患者さんに「この薬にしましょうか?」と勧めると、患者から“You are the doctor”といわれて、最初は意味が取れなかったのを覚えている。でもこれは慣用句で、「あなたが決めることです。私は言われた通りにします」ということなのだ。医師の指示には従わざるを得ない、という考え方は米国でも同じなのだ。
 もちろん「誰かからAという薬についてのいい噂を聞いたから、自分も出してほしい」というリクエスト自体は、とても安易かも知れない。ただ患者の側は、何が安易で、何が正当な問いかけかすらもわからない場合が多いので、それを頭ごなしに叱られるいわれはないだろう。
「あなたは医者じゃないんだから」という返答が返って来る可能性がより高いのは、診断に関することである。患者から
「私はA(診断名)ではなくB(診断名)ということはないのでしょうか? 」
 と言われることがある。これに対しては激しい怒りや自尊心の傷つきを覚える医師も少なくない。
更に困るのは、医師の変更やセカンドオピニオンのリクエストに際しての医師の反応である。最近では精神科の場合は「前医の紹介状(診療情報提供書)がなければ、新患として受け入れられない」という方針を取っている精神科が少なくない。すると診療情報提供書を書いてほしいと言い出せない、という患者の場合は、結局は現在の主治医を変更できないという問題が生じてしまう。
しかし最近では医師の意識も少しずつ変わりつつあるようである。私もその立場に近いが、患者からのリクエストがひとたび受けたら、それを取り入れるという立場である。例えば薬の変更や追加のリクエストは、それが意味があるのであれば、試みることを考える。診断については、取りあえずは除外診断のリストに加えてみる。セカンドオピニオンのリクエストには原則として応じる。
 この立場の利点は、後に「私の主治医は私の声を聞き入れてくれませんでした。」という批判を受けないためにも重要なのである。もしセカンドオピニオンを求められた別の医者が全く異なる意見なら、どちらを選ぶかを患者本人に決めてもらうといいだろう。もちろんそれに対して患者が「私には決められません。“You are the doctor」と言うなら、でももともと別の人の判断を仰ぎたくてセカンドオピニオンにいらしたのでしょう?と尋ねる。もしお望みなら、サードオピニオンを求めるように促すこともいいだろう。
 またセカンドオピニオンが、「今の先生の診断や治療方針でいいと思います」ならば、今の主治医は現在のやり方にもう少し自信を持っていということにもなるのだ。
ということで医師のナルシシズムはあまりそれを保つ根拠がなくなりつつあるのが現実であろう。
最後につい最近触れたニュースから。ある人物が医師を騙って長い間「診療」を行っていたが、最近になってそれが露見したという。その「ニセ医者」についてもと「患者」やもと同僚に尋ねると、たいてい次のような返事が返ってくる。
A先生はいつも愛想がよく、子どもの患者には「大丈夫だからね」と優しく声をかけていましたよ。無断欠勤や遅刻はせず、患者からの苦情もなかったと思います。」「一緒に仕事をしていて嫌な思いをしたことはない。医師ではないと聞いて驚いた」。「ただ、出身地など個人的な話はしたことがありませんね。」
A先生は実は普通に働いていたにすぎないのだろう。普通にあいさつにして、普通にお客さん(患者さん)には丁寧に接して。つまりナルでないというだけで、その腕は関係なく信望を得る傾向にある。そう、ナルな医者は患者を現実に失うのである。