2015年9月18日金曜日

カウンセリングの初学者に向けて(2)

今日の分は、完全に自己剽窃(30の心得、第2原則)だが、論文を組み立てるうえでの素材である。
精神療法にある種の治療原則があるとしよう。多くの種類の心理療法が独特のルールや手順を掲げている。それらの治療法のマニュアルを読めば書いてあることだ。これらの治療原則の存在意義は確かにあるだろう。それはその心理療法が一定の手順を踏むことで、一定の効果を生み出すという前提に立つ以上、当然必要なものだ。しかしそれらを背後から力強く支えているのが倫理原則なのである。そして実は倫理原則のほうがむしろ上位に立っているのだ。
 ではその倫理原則とは何か。それはおよそすべての治療法を通して大体共通している。それを一言でいえば、次のようなごく当たり前のものである。
「心理療法は第一に来談者にとって益とならなければならない。」
 たとえばAと呼ばれる心理療法を考えてみる。Aに伴う治療原則や治療技法を守ることで、それが遂行される。それらの原則をa-1, a-2, a-3, ・・・と呼ぶことにしよう。同様のことはB,Cと呼ばれる心理療法にもある。つまりb-1, b-2, b-3,・・・とかc-1, c-2, c-3・・・ とかが存在することになる。それら中に共通してxという項目が実際に明記されていたり、示唆されたりしているはずである。そしてa-1, a-2, a-3,とかb-1, b-2, b-3, とかc-1, c-2, c-3とかが、このxによって支えられていなければ、A,B,C.のいずれの治療価値も非常に限られたものになり、場合によっては来談者にとって害を及ぼすことになってしまうという事情があるのだ。
 この辺の事情を説明するために、更に具体的な例として、精神分析的な治療原則を考えよう。フロイトはその著作で、二つの基本原則を唱えている。第一の原則が自由連想であり、第二の原則が禁欲規則と呼ばれるものだ。すなわち第一に、来談者は心に浮かんだことを自由に隠し立てすることなく面接者に話さなくてはならないこと、そして第に、治療は「禁欲的に」行わなくてはならない、すなわち面接者と来談者のどちらかが一方的に利することがあってはならないこと、と規定したのである。
 それ以外にも精神分析には、解釈を中心とした洞察的な介入が進められること、面接者は受身的に、つまり来談者からの質問に答えることは最小限にして、来談者の洞察を得ることを目的にしなくてはならない、などの、いわば不文律としての事実上の原則がいくつか存在する。しかしここではまずこの二つの基本原則について考えてみよう。
 ここでの自由連想という原則は、先ほどの書き方ではa-1とすることが出来る。そこでこの原則が守られなかったらどうかについて考えよう。つまり来談者が心に浮かんだことが恥ずかしくて口に出来なかったり、面接者が来談者が自由連想をするのに任せずに自分から話しだしたりしてしまった場合である。そうなることで治療がフロイトが提唱した精神分析療法という形から離れてしまうとしても、実はそれにより特別来談者にとって決定的に不利なことは実は生じないのだ。
 むろんフロイトは治療が精神分析療法と呼ばれるものである以上は、この第一原則は当然守られなくてはならず、さもないと治療効果は期待できないと考えたはずである。ところが実際に精神分析が行われる場面では、この原則がきちんと守られる状況の方が例外的と言える。そのこともフロイトは最後はわかっていたようだ。来談者が心に浮かんだことを一切加工せずに面接者の前で話すことは事実上不可能だったため、分析を行う面接者や来談者の大部分が、この原則を厳密な意味では守らずに治療を行ってきた可能性がある。それがフロイト以降の精神分析の現状であり、場合によってはフロイト自身もこれを完全には守っていなかったかもしれない。ということは、この自由連想の原則は、精神分析という手法にとっては理屈上は不可欠かもしれないが、現実の治療プロセスを考えた場合には、さほど重要ではなかったという可能性があるのだ。
 ではもう一つの原則である禁欲規則はどうだろうか?こちらは実は倫理原則なのである。治療は「禁欲的に」行わなくてはならない、すなわち面接者と来談者のどちらかが一方的に利することがあってはならない、という規定は、倫理原則そのものといっていい。つまり先ほどの話ではxに相当するものだ。
 このXは各治療法に共通するものだ、という言い方をしたが、その意味は以下の通りだ。それはサービスを提供する側が、される側に対して守るべき倫理的な原則として決まっていることだからである。心理療法に共通しているというよりは、たとえば医療や法律相談、宗教上の関係などにも共通することだ。それは一言で言えば、「サービスする側は、される側を利用してはいけない、害してはいけない」ということである。これがxの正体なのだが、これがabcを支えていないと意味がないといった意味もわかっていただけるだろう。たとえば自由連想という原則も、それがやり方によっては「サービスされる側を害して」しまうのであれば、意味がない、というよりは削除されなくてはならないのである。
臨床例
面接者A: 私はどうも治療がうまくいっていない気がします。私がやるべきことをしていない気がするのです。正しい治療法を行っているようにも思えません。
バイザー(本書では、以下「スーパーバイザー」を意味する):どういう意味でですか?
面接者A: 来談者は仕事場での愚痴をこぼすだけ、私もそれを聞いていて、具体的なアドバイスをするだけで終わってしまいます。転移解釈など夢のまた夢です。
バイザー:それが正しい治療法を行っているかに自信がないということとつながるわけですね。ところで転移解釈というのは精神分析の概念ですが、あなたは分析的な手法で面接をする、と来談者にも断っているのですか?
面接者A: いえ、別に・・・。でも治療とはそうするのが普通と聞いています。私の先輩もほかのバイザーもみなそうしていました。
バイザー:もともと精神分析的なやり方をすることを来談者と共有しているというわけでもないのに、それを治療の原則とする根拠もあまりないように思えます。その来談者はあなたのやり方に不満でも持っているのですか?
面接者:いえ、仕事場で言えない愚痴をここで聞いてもらえるのはいい、と言っていました。
バイザー:来談者にとって役に立つことが面接者の責務です。あとは今の話の聞き方を続けること以外にどのような方針を来談者が望んでいるのか、他にあなたが出来る様に思われることとして何があるかを来談者と話してみればいいのではないでしょうか? ついでに言えば、正しい治療法を行っているかどうかは、あなたの個人的な選択の問題であり、この来談者の治療とは無関係な部分も大きいと思います。問題はあくまでも「来談者の役に立つ治療を行っているか」であり、「正しい治療を行っているかどうか」ではないですから。
面接者:でも正しい治療法に基づいていることが来談者にとっても有益で役に立つということではないのですか?
バイザー:そこが悩ましい問題ですね。あなたがそこで言っている正しい治療法が、精神分析的に見て正しい治療法、という風に限定されているという点が。精神分析について特に詳しく知らない来談者がこう問われたらどちらを選ぶと思いますか?「正しい精神分析的治療を行ってほしいですか?それともあなたの役に立つ治療をしてほしいですか?」きっと来談者は戸惑った表情でこう答えるでしょうね。「精神分析についてはよく知りませんが、それを従うかどうかにかかわらず、助けてほしいのです。来てよかったと思うような治療を受けたいのです。」それが面接者としての倫理的態度です。
 ちなみに医療倫理の4原則というものがあるので紹介しておきたい。「無危害」、「善行」、「正義」、「自律尊重」と呼ばれるものだ。もう少し詳しくこれらを説明すると以下のようになる。
1
.無危害原則・・・「来談者に害悪や危害を及ぼすべきではない」。

2. 善行原則・・・「来談者にとって医学的に最も適切で利益が多いと思われる治療行為を行うように勤める」。つまりリスクとベネフィットをはかった上で最善の医療行為を行う、ということである。
3.
 正義原則・・・「社会的な利益と負担は正義の要求と一致するように配分されなければならない」。これは少しわかりにくいが、医療現場では、医療資源の公正な分配が必要であり、不正行為や不公平が生じてはならないということである。
4.
 自律尊重原則・・・「来談者が自分で考えて判断する自律性を尊重しなければならない」。来談者の主体性を尊重せよということだ。
 これまでの医療は、善行原則が重んじられたが、最近では自律尊重原則を重視するようになり、そこではインフォームドコンセントが重要であるとされている。もちろんこれら以外にも、守秘義務や来談者に嘘をつかない等の原則も唱えられている。
 これらの4つの原則は、別々のものというよりは、ひとつのことの言い換えに過ぎないと考えていいであろう。つまり法律は守りつつ「来談者に対する利益を最優先する」ということである。無危害も善行も正義も自立尊重も、結局はそういうことであり、私が先に論じたXに相当する。とするとたとえばX以外の治療原則、つまりa-1, a-2, a-3,とかb-1, b-2, b-3, とかc-1, c-2, c-3 とかは、それらを守ることが来談者にとって最大の利益につながるということが保障されることで、あるいはその分だけ存在意義を持つということになる。
 たとえばフロイトの自由連想は、つまりそれを守ることで成立する精神分析療法が来談者にとってベストである、という条件で初めて意味を持つことになる。これは100年前のフロイトの時代だったらそのとおりであると無条件に信じられていたことかもしれない。しかし現在では治療効果の示された治療手段は精神分析以外にも数多く存在している。週4回、数年間という時間と費用をかけた上での効果、つまり費用対効果ということになると、さすがに精神分析に軍配を上げにくいケースが多いだろう。すると自由連想を守らなくてはならない、という原則は、禁欲規則に比べるとはるかにその重要さが軽いということになる。
 最後に一言・・・・私はこの章でフロイトの禁欲規則を、私が都合がいいように解釈している可能性があることは認めなくてはならない。実際の禁欲規則はフロイト自身がその著作の中でわずかしか触れておらず、私がここに読み込んでいる様な倫理的な意味合いを、フロイト自身がそこに託していたかどうかは、実は難しい問題であるということを付け加えておかなくてはならない。あくまでも私がフロイトが唱えたであろうと信じたい禁欲規則についての話である。