オトナの事情で、○○学会シンポジウム用の抄録を書いた。
報告者は過去に実際に異文化体験を持ったが、精神科医であり臨床心理士であるという立場も、複数の種類のサイコセラピーを実施する立場も、いずれも異文化体験に準ずるものと考えている。結果として報告者は数多くの考え方や感じ方の選択肢から、自分自身のやり方を選び取っていく必要に迫られ続けたが、最終的に至ったのは、サイコセラピーを、クライエントとセラピストの相互の違いを前提とした、「心の照合の場」と理解するという立場である。
その「照合の場」の遡上にあるのは、クライエント自身の人生経験であり、思考やファンタジーである。クライエントがそれを語るのを聞くセラピストは、クライエントとは異なる職業や文化的な背景を持ち、その上に独特の思考パターンや発想や発達の偏りを持った人間である。またセラピストがクライエントの問題の外側に位置しているという違いもある。そしてそのセラピストの心には、クライエント自身の語りに触発された様々な印象や思考を生むが、彼はそれを治療的な配慮を加えつつ提示するのである。このセラピストとクライエントの心の照合は、それ自身が異文化体験となるが、そこでは両者の違いは、それを十分に意識化し、話し合うことで重要なツールとなる。そうすることで両者の個人的、文化的な背景の違いは、一時的にバックグラウンドに退くのである。
一例として米国での社交不安を有するある患者の治療例を挙げる。その若い男性の患者は、人前で自分の考えを主張する前に、常に周囲がどう思うか気を使ってしまう、と訴えた。そして同じような悩みを、他の誰からも聞いたことがないと語った。さらには彼の育った米国の文化では、周囲に気を使う、あるいは気にする傾向は、何らポジティブな評価を受けてこなかったという。私は自分だけが異常で特殊な人間だという感覚に苦しめられていた。報告者は、日本の文化においては、周囲への気遣いがごく当たり前のように生じ、むしろそれが過剰なことが問題になる傾向にあるという事情を伝えた。その結果として彼の「自分だけが異常だ」という感覚は少し薄れ、またその後は日本文化に興味を持つことになった。報告者は同様のことを、人前でしり込みをするという対人恐怖的な傾向を持ち、それを他者に話せないでいる複数の米国人と体験することとなった。
また報告者が米国のクライエントからしばしば感じたのは、彼らがいかに一人で生きていくかについて懸念し、かつ関心を寄せていたことである。それは個の自立を強調する文化的な価値観とともに、それぞれが自分の利益を優先させるために、老年期において実際に頼れる人がいなくなってしまうという現実にも根ざしていた。そしてその底流にあるのは、日本人と同様、他人との絆を持ち続けることへの希求であった。