2015年8月13日木曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 3/50)

もっとシンプルな定義
厚皮型の自己愛の定義に関しては、もっとシンプルなものもある。以下は自己愛パーソナリティ障害に、厚皮、薄皮という二種類の分類を行ったギャバード(彼の言葉では前者を無自覚型 oblivious type、後者を過剰警戒型 hypervigilant typeとした)の基準である。
1. 他の人々の反応に気づかない has no awareness of reactions of others
2. 傲慢で攻撃的 arrogant and aggressive
3. 自分に夢中である self absorbed
4. 注目の的である必要がある needs to ber the center of attention
5.
「送話器」はあるが「受話器」がない has a sender but no receiver
6. 見かけ上は、他の人々によって傷つけられたと感じることに鈍感である Is apparently impervious to having feeling hurt by others
かなり省略した形で書いてあるために、少し説明が必要かもしれない。1.「他の人々の反応に気が付かないhas no awareness of reactions of others」、は他の人が迷惑がっていたり、退屈だったりすることに気づかない、あるいは気にしない、ということである。英語の”Oblivious” とは、忘れがち、という意味と、そもそも関心を払わないという意味の両方を含む。自分が自慢話や、知識のひけらかしをしている時は、それ自体が快楽で、周囲がそれをどう感じていようとどうでもいい、というニュアンスがある。 
2.の「攻撃的」、とは特に自分のプライドを傷つけるようなことが生じた時に発揮されることは言うまでもない。それが時にはどのような意味で、そのような理由でその人のプライドに触るのか分からない、ということもある。故事に「逆鱗(げきりん)に触れる」という表現があるのをご存じだろう。目上の人を怒らせることを言うが、「逆鱗」とは竜のあごの下に逆さに生えているうろこのことで、そこに触れると竜が怒って触った人を殺してしまうという伝説に由来するという。(ちょっとコピペ) つまりその人には人にわからないコンプレックスなどがあり、それに触れたことを周囲も気が付かないということもあるらしい。
 その昔空手の神様と言われたO氏が、写真の撮影を担当していたカメラマンに急に怒り出したという。最初はその理由がわからなかったが、後に明らかになったのは、O氏は、そのカメラマンが彼の薄毛が目立つ方向から写真を撮っていると感じて腹を立てたという。喧嘩空手の達人とも呼ばれたO氏がそのような事でプライドを傷つけられるということはにわかに信じられないが、これもその「逆鱗」の一種なのかもしれない。 ちなみに私はO氏が「厚皮型」の自己愛者に当てはまるとは考えてはいない。「逆鱗」の例として出しただけである。しかし厚皮型の場合は、この逆鱗は、喉の下だけではなく、その体のいたるところにびっしり生えていて、誰でも容易にそれに「触れて」しまう可能性があろう。

Aさん(30代男性)は、会社の職場の新しい上司B課長とうまくやっていけずに悩んでいた。Aさんが口下手であまり周囲と交わろうとしない彼のことが気に入らないらしい。B課長は新しい職場で早く部下となれようと、仕事の後連れだして飲みに行くことが多かった。Aさんも最初の何回かは付き合っていたが、間が持たず、またしばらく前からアルコールを断っていたこともあり、そのうち誘いを断るようになった。それがB課長の気分を損ねたのだ。それからB課長はAさんだけにはほかの部下とは違い露骨に陰険な態度で接するようになり、Aさんのちょっとしたミスで詰問を長々とするようになった。職場の同僚たちもB課長の行為を一種のパワハラと感じ、陰ではAさんに同情するものの、同じような目に遭いたくないためにB課長の言うことには絶対服従という雰囲気が出来上がり、Aさんはそのうち抑うつ症状を来すようになり、精神科を受診した。

 厚皮のナルシストがプライドに傷がつくようなことを言われたりされたりすると、猛烈な勢いで怒るのはどうしてだろうか? それは相手を叩き、凹ますことで、強烈な恥の感情を和らげることができるからだ。
  厚皮のナルシストは、自己愛の風船をいつもパンパンに張りつめている。それを傷つけられるようなことを言われると激しく心が痛む。それが恥の感情だが、恥は自分が見くだされたり価値下げされたときに生じる感情だ。最近の言葉で言えば、自分が「駄目出し」された時の気持ちである。その時にそれを和らげるのは、相手をダメ出しし返すこと、つまりは叩き凹ますことなのである。相手を叩くことで、自分のへこみを相対的にあげようという、かなり無茶で強引な手段だ。でもそれで当面の恥による痛みは少しは和らぐのである。
 さらにここでややこしいのは、上司にとっては自分の傷つきや恥の感情を周囲に、特に部下に知られることなどもってのほかなのである。それこそ自分の弱さを周囲に示すことになり、そのような事態だけは絶対に避けたい。するとともかくも攻撃に回る、ということしか頭になくなってしまうのだ。
先ほどの例では、上司であるB部長は、Aさんが飲み会の誘いを断ったことで、自分の自己愛の風船を傷つけられた。Bさんのイメージの中では、彼の飲み会の誘いを平気で断る人などだれも存在してはならないのである。そこでB部長は反撃に出る。それがAさんに対する苛めやパワハラなわけだが、実はAさんにとっては、B部長がそんなことで傷ついていることなど想像できない。部下にとって自己愛的な上司はまるで神様のように映ることが多い。つまりきわめて強力で、部下などによって傷つくような存在には思えないのだ。そこで一方的に怒鳴られ、ダメ出しをされる。その時は「なぜかわからないけれど怒られる。きっと自分の方に落ち度があったのだろう」と思うしかない。相手が自分の傷つきやすいプライドのせいで、理不尽にもこちらに「仕返し」をしてきているという構図が読めないのである。

 ただし厚皮型のナルシシストの怒りは、プライドが傷つけられた時ばかりではない。部下を、生徒を、スーパーバイジーを叱ることで自分の力を周囲に誇示し、自分の自己愛的な満足を高めているという可能性もある。その場合のナルシシストは、部下や生徒の行動や態度の中に、叱り付けたり文句をつけたりする口実を常に探していることになる。絶対に持ちたくないタイプの上司や先生ということになるだろう。
3.「自分に夢中である」(原語では self-absorbed) は、自分に魅了されているという意味ではなく、自分の気持ちや行動に没入していて、他が見えない状態ということである。そしてこれは5の、「送話器」はあるが「受話器」がない has a sender but no receiver ということとも通じる。つまり自分の話や振る舞いが他者に向けられている一方では、他者からの声や反応を受ける用意がないということである。その意味ではこの3.は1.他の人々の反応に気づかない、とも事実上同じことを言っていることになるだろう。
6. 「見かけ上は、他の人々によって傷つけられたと感じることに鈍感である」、は実は微妙な問題を含む。これは先の「逆鱗」の問題とも絡むのだ。もし厚皮のナルシシストたちが、人からの批判に鈍感であれば、何を言われても傷つかないということになり、周囲がその「逆鱗に触れる」心配もなくなるわけである。このタイプのナルシシストが「厚皮」という名を冠するのもそのような性質によるものだ。
しかし実際には、彼らは他人からの批判に対して、その注意や反応が選択的であることが多い。他人からの批判に一切耳を貸さず、全く響いていないという面と、なぜこんなことに腹を立てるのか分からないという面の混合が見られるのである。そしてそれはそのナルシシストのその時の気分にも大きく左右されるという事情がある。部下としてはちょっとした過ちを犯し、それを報告することで激しい叱責を受けることを恐れるが、実際にはその上司はなぜかその時上機嫌で、気持が悪いほど鷹揚な対応を受けたりするのである。この反応の予想不可能さという特徴が彼らをより恐れさせ、また敬遠させる原因にもなるのである。
政治家や大学教授が不祥事でスキャンダルに巻き込まれたり職を失ったりするが、意外なほどに平気な様子を見せることがある。しかしその場合はその種の報道を一切耳にしない、それについて一切口にせず、考えもしないという形で、つまりは何事もなかったかのようにして乗り切ることが多い。精神医学的には否認という防衛機制が働いていると考えられる。「厚皮」の本体は、この否認の強さということになる。しかしあらゆる防衛機制と同様に、それは不安定で時には精神の破たんを招く。否認の綻びは感情の暴発や一時的な抑うつ反応という形を取るかもしれない。

厚皮型のナルシシストの基本的な性質

「厚皮型」の人々は、時には恥知らず、厚顔無恥、などと非難されるが、彼らは結構社会では厚遇されてもいる。社会が彼らを育てたともいえ、だからこそそこまで面の皮が厚くなれたのである。彼らが自慢話を滔々とする時、周囲の呆れ、うんざりした気持ちに気が付かないひとつの理由は、周囲がそのような感情を示さずに、一見面白そうにその話に聞き入るからである。
自己愛者をそのままほっておき、その面の皮をどんどん厚くさせてしまうという傾向は、日本社会に特有という訳ではないにしても顕著な傾向と言えよう。年功序列、先輩のいうことには無条件に服従、という古い社会の体質がそこに影響している。
厚皮タイプに関する一つの原則を示そう。
「厚皮の自己愛者の面の皮は、放置しておくと、可能な限り、どんどん厚くなる。」
自己愛になる、とは実は人間の性(さが)であり、人間関係で言いたいことを言い、人に命令し、わがままを通すのは、結局はそれが楽だからだ。自己愛の人は、あたかもそこに誰もいないかのように振る舞う。人がいるとすれば、それは召使のようなものだ。
 ここで「可能な限り」と書いてあるが、それはどういうことか? それはその人のおかれた環境により、どこまで面の皮を厚くできるかが決まってくるからだ。それは端的にいえば、その人が周囲に、どの程度自分より位が下の人間に囲まれているかである。

 この件に関しては、面白い報告がある。「つながる脳」(藤井直敬 ()
エヌティテ出版、2009年)によれば、上位にいるサルと下位にいるサルのMRIを取ったところ、上位のサルの前頭葉はあまり活動していないのに、下位のサルのそれは活発に活動していたという。ちなみにMRIとは脳の活動をグラフィックに表す機械である。どこかで脳が活発に働いていると、その部分が濃淡の違いにより示される。
 さて上位のサルの前頭葉が休んでいる、というのは何を意味するのだろうか。前頭葉は社会的な振る舞いをする際に重要な判断を下す部位で、脳のいわば執行部と見なすことができる。この部位が上位のサルで休み、下位のサルで活動しているというのは、上位のサルの前で、下位のサルはいろいろ気を使い、失礼の無いようにし、上位のサルに気に入られようとするということだ。その為に下位のサルは非常に神経を使うというわけである。
 上司と一緒に食事をしたり旅行をしたりするという経験を持ったことがある人なら良くわかるだろう。少し時間を共に過ごすだけで、へとへとに疲れ切ってしまうはずだ。その間頭はフル回転しているのである。それに比べて上司はおそらく平然と、何も考えずに過ごしているはずだ。そしてその方が確実に楽なのである。
 自己愛的な人間は、自分がそこにいる人たちに比べて上位に位置するとわかれば、もう好きなように振る舞えばいい。タバコを吸おうと思って懐から取り出すと、さっと部下がライターを取り出して火をつける。灰皿を持って来てくれる。人前でたばこを吸うことが今ほど問題にされたかった昔は、とてもよく見かける光景だった。自己愛的な人の周囲にいる人は、それこそ手足のようになって、自己愛者の欲求を満たすことに貢献する。そして当の自己愛者は自分の欲求のことしか考えていないのだ。

厚皮型の自己愛は、基本はたたき上げである
上の例からもわかるだろうが、厚皮型の自己愛者は、たたき上げであることが多い。それは「ボスざるがたたき上げである」と先ほど言ったことと同じ事情だ。
 それはどういうことかといえば、社会の中で最初は上位の人間に使え、お追従を言うことから始まり、つまりは上位の人間の自己愛が満足するように振る舞い、同時に自分より下位の人間にはしっかり自己愛を発揮して自分の位置を築いていく、ということだ。厚皮型自己愛の人は、昔は巧みなゴマすり、おべっか使いでもあったのだ。それが徐々に順位を上げて、最後には厚皮型のボスにのし上がるのである。
ところでこんなことを書くと、読者の中には、「この現代の平等社会には、人間に上も下もないだろう。」と思われる方もいるかもしれない。しかしそれはとんでもないことである。人間は動物である。そして社会性を有する動物は常に格差社会を構成する。問題はその格差がしばしばアンフェアであり、いじめや虐待を含んでいるということだ。それはもちろん最小限にするよう努力をしなくてはならない。しかし人が社会で整然と生活するためには、「順番」はどうしても必要である。そしてその順番とは言うならば「強さ」の順番なのだ。そしてそこに秩序が生まれ、自己愛が生まれ、そして非常に残念なことに、虐待やいじめの温床にもなってしまう。人間社会とはそういうものだ。 
理想的な格差社会(と言うとヘンな響きがあるが)というものを考えてみよう。たとえばあなたが大学のサークル活動に入る。テニス同好会でも何でもいい。そこでは一年生は最下層に属し、道具運びや部室の掃除などの下働きを任される。そしてある意味で先輩の世話を焼かなくてはならない。理不尽な説教にも耐えるということも多少は起きるかもしれない。先輩の使い走りをし、選択を任せられるかもしれない。
しかしあなたは先輩たちに奉仕するだけではない。同時にテニスラケットの持ち方や素振りの仕方を一から教えてもらえる。先輩を立て、敬語を使い、席を譲ることで先輩の自己愛を満たす一方では、あなたは彼らから「かわいがられ」もする。まだテニスの試合経験もゼロで右も左もわからないあなたには、彼らに見守られることが心地よく、安心感をも与えられる。
ここで「心のバランスシート」というものを考えてみよう。あなたは先輩の自己愛を満たしてあげる。これは気を使い我慢をする分「マイナス」だろう。しかし可愛がられ、テニスを教えてもらい、時には食事をおごってもらうと言う「プラス」も存在する。それに一年我慢すれば、来年には新入生が入ってきて、少なくとも彼らに対しては大きな顔をしていられる、という希望もあるのである。だからプラマイでは結構なプラスになり、あなたは同好会に顔を出し続けるのだ。
ここで「たたき上げ」の意味をもう一度確認しておきたい。後輩としてのあなたは、当然先輩に気を使う。部室に先輩が入ってきたら、席を譲るだろう。言葉は丁寧に話し、タメなら「そうだね」というところを、「そうですね」と言う。自分の振る舞いのために先輩が不快に感じていないか、と常に想像力を働かせ、精神的なエネルギーを費やすのだ。それができないと「礼儀知らず」「生意気」「空気が読めないやつ」などと言われるだろう。
しかし二年生になると状況はかなり変わる。自分に対して気を使う新たな学年が登場する。依然として、34年生には気を使いながら、逆に1年生には機を使ってもらえる。こうして学年がさらに上がっていき、最上級生の4年になると、部室で自分が気を使う相手はいなくなるだろう。一番「省エネ」でいられるのだ。黙っているだけで、席を譲られ、お茶も出てくるかもしれない。
 
ここで後輩に気を使わなくていい、という部分が「厚皮」を形成しているということはいいだろう。厚皮とは結局、「鈍感さ」というよりは「ここには気を使わなくていいのだ」という判断や認知により成り立っている。ギャバードの診断基準の1. 「他の人々の反応に気づかない」の「気付き」と同様の意味を有する。
 昔奴隷制度が存在していたころ、若い女性は男性の奴隷の前で着替えることに気恥ずかしさを感じなかったという話を読んだことがある。それは奴隷を人間と認知しない、という習慣があったからこそ出来たことであり、その女性が特別鈍感だったからということを意味しないであろう。自分の感受性を意図的に鈍らせていた、と考えることも出来るであろう。
私が考える「たたき上げ」とは、このような格差社会、階級社会の階段を上り詰めた人が典型的に示すのが「厚皮」が他の自己愛であるということである。もちろんこのようなたたき上げタイプの人生を歩むことなく自己愛的になる人も存在するであろう。だからここでは「厚皮」型の自己愛の典型例について述べているとお考えていただきたい。