2015年8月15日土曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 4/50)

叩き上げでない「厚皮」型の自己愛者

 本書ではこれまで「厚皮ナル」基本的には「たたき上げ」であると論じている。しかし幸運にも(あるいは「不幸にも、」と言うべきかもしれないが)突然の形で権力や能力を得た人間は、そのたたき上げの期間を経ることなく厚皮型の自己愛になってしまうことがある。何度も述べているように、権力を持つにしたがって、人は99%このタイプの自己愛になるが、それが準備期間を経ずに起きるのだ。そうするとヤヤコシイことになる。「手の付けられない」自己愛者、つまりは独裁者になってしまうのである。
 シリアのアサド大統領を考えてみよう(アサド一族もたくさんいるので、以下に述べる「アサド氏」とはバッシャール・アサド氏を指すこととする)2010年の「フォーリンポリシー」誌で「世界最悪の独裁者」ランキングの第12位に選ばれている。
  彼の経歴で特徴的なのは、彼はもともとは、大統領であった父親の跡を継ぐ意思もなく、控えめでおとなしい性格を持つ眼科医であったということだ。転機は、後継者と目されていた兄の交通事故死である。それを機会に彼は、本来は興味を示していなかった政治の世界に巻き込まれてしまったと言っていい。それでも国際社会はアサド大統領が伝統的な権力の腐敗を遠ざけ、政治改革に着手するだろうと期待していた。
 そのアサドは大きな波乱なく権力を継承したが、政治的経験がほとんど無いため、あまり最初から国政で主導権を握ることはせず、もっぱら先代以来の首脳が政務を仕切っていたという。アサドは大統領に就任後、みずから新たな閣僚を選任し、「腐敗の一掃と改革」を訴えて、汚職疑惑のあった政府高官を次々と逮捕した。温厚な彼がこれを出来たのは、大統領という地位のなせる技だろう。そして次第に彼は対外的にも内政の面でも、政敵への態度を硬化させていったという。そして例の大量殺人容疑となったのである。しかし同時に、デモを弾圧したり、強権的な政治を続けることを悔やんでいるという。
 急に権力を掌握すると、人はナルシシズムを危険なまでに膨らませて行くという事情を表すもう一人の例が、あの北の寒い国のリーダーだ。彼こそいきなり政治の世界に登場し、頭を刈り上げられて人民服を着せられ、独裁者になった人だ。私たちが驚いたのは、自分にとっての恩人であり、育ての親的な存在でもある叔父を処刑してしまったということだろう。現在32歳の独裁者は、おそらく政治的には全くの未知数、というよりは未経験のまま国のトップに立ち、すべての権力を握ったのである。その結果として起きていることは、部下がミスを犯したり、自分の意に沿わない行動を起こした時に、それを排除、粛正するという行動である。
アサドの場合も、寒い国のリーダーについても言えるのは、これまでに述べたような「叩き上げ」ではないということだ。寒い国のリーダーの父親の時代には、それでも部下との間にある種の互恵関係があった。密告した部下を抜擢するという形で、自分の自己愛を満たす人をそれなりに重用したわけである。しかし現在のリーダーは、密告者も「知るべきでない情報を知った」という理由で粛清されてしまうという。なんと恐ろしいことだろう。(現代ビジネス「経済の死角」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43535
叩き上げではないナルシストに共通するのは、自己愛的なギブアンドテイクを体験していないために、部下や国民に対する情が極めて薄く、権力を持つことはそのまま歯止めが効かない濫用へとつながるのだ。

3.薄皮型の自己愛者-隠れナルな人たち

同じ自己愛者でも、「薄皮型」の場合は、厚皮型に比べてかなり趣が異なる。このタイプのナルの人たちは、実はあまり自己愛的な人たちという印象を与えないかもしれない。それは彼らがあまり人前に出たくない、むしろ出るのが辛い、という性質を持っているからだ。だから一見人嫌いな人たち、孤独の好きな人たち、という風に見られがちだ。人前に出たがる傾向にある厚皮型の自己愛者たちとは大きな違いがある。
 しかし彼らもまた敏感なプライドを持ち、それが人から支えられることを強く望み、それが傷つくことを極度に恐れる。その点では厚皮の人たちと共通しているのだ。
薄皮型の自己愛について論じたギャバードは、次のような診断基準を考えた。
1. 他の人々の反応に過敏である is highly sensitive to reactions of others
2.
抑制的、内気、表に立とうとしない is inhibited, shy, or even self-effecing
3.
自分よりも他の人々に注意を向ける directs attention more toward others than toward self
4. 注目の的になることを避ける shuns being the center of attention
5.
侮辱や批判の証拠がないかどうか他の人々に耳を傾ける listens to others carefully for evidence of slights or criticisms
6. 容易に傷つけられたという感情をもつ。羞恥や屈辱を感じやすい has easily hurt feelings; is prone to feeling ashamed or humiliated
ここで気が付くことは、先ほどのDSMによる自己愛パーソナリティ障害の診断基準の9項目の診断基準のどれにも、かすってもいないことだ。つまり薄皮型は、見かけ上一般的なNPD(つまりは厚皮型)とは全然異なる病像を示すことになる。そこで改めて問おう。彼らのどこが「自己愛的」なのだろうか。
ここでこのような例として考える症例を提示しよう。
Cさん(30代男性、独身、会社員)は目立たない存在である。システムエンジニアの仕事はさほど楽しい、ということもなく、また帰宅してからも特に趣味もない。結局パソコンでゲームをしたりしてぼんやり過ごす。同僚とのおしゃべりにも加わらず、むしろ超然として女性にも興味がないようなそぶりを示している。孤独を満喫していると思われているフシもある。しかし心の中ではいつも激しい葛藤を体験している。出会う人はことごとく、Cさんのことを無視しているのではないか、と思えるのだ。立ち寄ったコンビニでも、店員の釣銭の渡し方が、自分にだけぞんざいだった気がして深く傷つく。先日は勇気を振り絞って中学時代の同窓会に出席した。すると二次会で入った居酒屋で注文を取りまとめた元クラスメートが、店員さんに伝える際にCさんの注文だけ思い出せなかった。Cさんは自分だけが仲間外れにされ、いなくてもいい存在だと思い、そのことが数日頭から離れなかったという。このようなCさんだが、人との交流を求めていないわけではない。むしろ自分の存在を認めてほしいと強く思う。ただその仕方がわからないのだ。だからアマゾンで本を注文し、自動的に送られてくる注文受注の確認のメールさえ、Cさんはかすかな喜びを感じたりもする。

このCさんも自己愛者と呼べるのだろうか、と思う方もいらっしゃるかもしれない。実際米国でもこの種の薄皮型自己愛がそれでも自己愛と呼べるのかどうかについては、色々見解が分かれるところだ。人によっては、いわゆる回避性パーソナリティ障害が該当するのではないか、という考えもある。ちなみに回避性パーソナリティ障害とは次のような基準を満たす人たちだ。DSM-5によれば、

1 批判や拒絶に対する恐れのために、職業、学校活動を避けている。
2 好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない。
3 親密な関係でも遠慮がちであり、親密となるには批判なしで受け入れられていると確信したり、繰り返し世話をされるということを必要とする。
4 批判などに過敏であること。
5 不適切という感覚や低い自尊心があるため、新しい対人関係では控えめである。
6 自分が劣っていると感じている。
7 新しいことに取り掛かりにくい。
(以上の基準の4つ以上を満たす必要がある)。

どうだろうか? DSMの自己愛パーソナリティ障害よりは、こちらの回避型パーソナリティ障害によほどあてはまるといっても過言ではない。ではどうして薄皮型の自己愛、という概念を設け、このような人々も自己愛の問題と見なすことにどのような意味があるのだろうか?
そこでCさんのことをもう一度考えてみよう。典型的な厚皮のB課長とどこか共通点はないだろうか? それは自分を認めてほしい、という強烈な願望なのである。この回避型の基準の2に注目していただきたい。「好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない」とある。これは言葉を変えるならば、自分が拒絶されないと確信できるような相手となら、安心して自分を表現できるということなのである。
 そう、薄皮の人にあるのは、自分の存在を認めてほしいという願望であり、それは厚皮の人と変わりないのだ。ただ彼らは勇気がなくて、それを表に出すことが出来ないのである。

薄皮の人たちのキーワードは「恥」である

ギャバード先生の示した「薄皮の自己愛者」の診断基準6は、「羞恥や屈辱を感じやすい」である。実はこれが薄皮型自己愛にとって決定的に重要だ。
 ここで鍵となるのが、恥の感覚である。
 恥とは自分が人に比べて劣っていたり、弱い存在だったりすることを自覚することに伴う、強烈な苦痛だ。そしてそれが特に対人場面で、つまり実際に誰かと対面をしていて起きやすいのが特徴的なのである。おそらくこの感覚を多かれ少なかれ体験したことがない人はいないだろう。ただその傾向が極端な人たちが、この「薄皮」の自己愛の人たちなのである。「薄皮」とは要するに感じやすさ、敏感さ、ということである。ツラの皮が薄い、とは要するに傷つきやすいということだ。
 Cさんのことを再び考えよう。Cさんは基本的に対人場面が苦手である。おそらく非常に相手に気を使い、また相手が自分をどのように感じているかが気になって、自分が何を言いたいか、何を感じているかに集中できない。まるで自分がなくなってしまったかのような感じがするのだろう。
 乳幼児研究では、このような対人場面での敏感さには、たぶんに生まれつきの性格傾向が関係している。生まれつき新しいことを恐怖に関し、刺激に対してしり込みするような赤ん坊が見られる。そのような赤ん坊の多くは、将来も引っ込み思案で敏感な傾向を示すようになる。
 ところでCさんの性格で特に複雑なのは、このような感情を人前で体験しているということ自体を恥に思い、隠そうとすることだ。その結果としてCさんはいつも孤高を装い、超然としているという印象を周囲に与える。彼がさびしそうに、人懐こそうにしている場合にはまだいいのだろう。周囲もそのようなCさんに気を許し、時には誘ってあげようと考えるだろう。ところが周囲はそのようなCさんに逆に最初から拒絶されているように思ってしまう。そして余計に距離をおこうとするのだ。ちなみにCさんの同僚から聞いた話では、Cさんはいつも笑顔を見せることが少なく、仏頂面で話しかけにくい印象を与えているとのことだった。おそらくむしろ「厚皮」の印象を与えてしまっているのである。
 このようなCさんには、実際に、もう一つの強気な、あるいは頑固な側面があるともいえる。それは自分の恥の感情を無理やり押し隠し、強気で押し通すということである。これが彼の対人関係上の問題をさらに難しくしていると言えるかもしれない。それが「面の皮の薄さ」と共存するのか、と疑問をもたれるかもしれない。しかし共存できるのである。「面の皮の薄さ」はもっぱら対人場面で発揮される。彼らに一番苦手なのは人前なのだ。しかしそれ以外では意外と負けん気が強く、意地っ張りな人は多い。