サイコパス型ナルシストは「たたき上げ」ではなく、むしろ「生まれつき」
ではサイコパス型のナルシストはどのようにしてこの世に存在するようになるのだろうか? 「厚皮型」の場合は、基本的にはその大部分がたたき上げということで論じてきた。しかしサイコパス型はそれとは異なる。まあ、もちろん両者の混合型を考えだしたらきりがない訳だが、ここでサイコパス型の標準形、というものを想定して考える。
サイコパス型ナルシシストは、いうならば「生まれつき」というところがある。後にも触れるが、彼らの生まれ持っての脳の欠陥という要素が強い。
もちろん人がなぜサイコパスになるのかについては、これまでにもさまざまな説が提唱されてきた。幼少時の虐待やネグレクトが原因だと主張する人もいないわけではない。しかし多くの場合、親は物心ついたころから、あるいはそれ以前から、子供がとんでもないモンスターに育っていくのを、なすすべもなく背筋を凍らせて見守るという場合が多い。
もちろん人がなぜサイコパスになるのかについては、これまでにもさまざまな説が提唱されてきた。幼少時の虐待やネグレクトが原因だと主張する人もいないわけではない。しかし多くの場合、親は物心ついたころから、あるいはそれ以前から、子供がとんでもないモンスターに育っていくのを、なすすべもなく背筋を凍らせて見守るという場合が多い。
サイコパスの子供時代は、通常は激しい衝動行為や癇癪に特徴づけられる。物を破壊し、人に殴りかかる。動物を虐待する。時にはさしたる感情を表出することなく、それらの行為に及ぶ。親がいくら言っても、それこそ体罰を使っても変わらない。そのうち妹や弟が生まれると、そのいじめが残忍でかつ見境がない。まだ赤ん坊の弟や妹の口をふさいだり、頭を壁に打ち付けたり、ということをするので全く目が離せない、ということが起きる。
ヘアは次のように述べている。「[親は]何とか助けを求めようとして、なりふり構わずに、次から次へとカウンセラーやセラピストを訪れるが、何一つ役に立たない。親が子供にかける期待は、次第にうろたえと心の痛みに取って代わられ、何度も何度も彼らは自問する。『私たちが一体どんな悪いことをしたのだろう?』」(ヘア、同書、P210 )いわば彼らは幼いころからすでに悪魔なのだ。そして彼らが最初に法廷に出るのは平均で14歳である、とヘアは言う。(無論米国での話である。)
ヘアは次のように述べている。「[親は]何とか助けを求めようとして、なりふり構わずに、次から次へとカウンセラーやセラピストを訪れるが、何一つ役に立たない。親が子供にかける期待は、次第にうろたえと心の痛みに取って代わられ、何度も何度も彼らは自問する。『私たちが一体どんな悪いことをしたのだろう?』」(ヘア、同書、P210 )いわば彼らは幼いころからすでに悪魔なのだ。そして彼らが最初に法廷に出るのは平均で14歳である、とヘアは言う。(無論米国での話である。)
通常の厚皮型と比べてみよう。彼らは社会の下の層から徐々に這い上がっていく。悪く言えば上には取り入り、下を支配して。しかしそこには上から可愛がられ、また下をかわいがる、というポジティブな側面があった。その意味で自己愛の階層社会では互恵的な関係が成立しているのであった。
それに比べてサイコパスは最初からトップの座にいる。彼らにとって取り入ったり媚びたりする相手はいないのだ・・・・。
それに比べてサイコパスは最初からトップの座にいる。彼らにとって取り入ったり媚びたりする相手はいないのだ・・・・。
もちろんこう言うとたちまち反論があるだろう。「そんな馬鹿な。最初からトップなんてありえないだろう。すぐに上にボコボコにされるのが落ちだ。」
もちろんそうだろうし、その意味では「失敗したサイコパス」は、どこの社会にも属すことができない、凶暴な野生動物のような存在でしかない。しかしサイコパスの「成功組」はより長期的な展望があり、その為に頭が回転するから、自己愛の階段を仮面を被りつつ登っていくことになるだろう。どこまで上り詰めるかが、そのサイコパスの「成功度」を示すことになるのだ。ただしそこにあるのは、すべてが偽りの、芝居の人間関係、対人関係でしかない。上から可愛がられても、心の中では鼻で嗤い、下には残虐で思いやりのかけらもない。その暴力的で狂気じみた支配に、下はただ恐れるだけである。
このような決して成功しているとは言えない野生のようなサイコパス型の自己愛者が集団社会で生き伸びるとしたら、その下への容赦のなさや苛酷さが上から重宝がられるからかも知れない。やくざや暴力集団であるなら、その非情さや残酷さで周囲を恐れさせ、その分だけ上に登りつめるのも早い。ヤンキー集団で歳は行かなくてもその捨て身の狂気ともいえる暴力性でたちまちトップに躍り出るというケースは少なくないと聞く。
サイコパス的ナルシシストの脳はどうなっているのか?
ここからは少し、サイコパスにおける脳のお話だ。最近は脳科学ばやりだが、脳科学の発展には理由がある。それはある意味では脳の中が「見える」ようになってきているからだ。そしてその事情は最近のコンピューターテクノロジーの発展と深く関係している。「fMRI」という機器は、脳の中で起きている動きを刻々と記録することが出来る。もちろんそれで脳の働きがすべて解明できるわけではない。脳とは途方もなく複雑なシステムなのだ。しかしひとつ重要な情報が得られる。それはどの部位が、いつ活動しているか、という情報だ。するとサイコパスたちに関しては、比較的明確な情報がわかっている。
最近日本でも読者の多い、ジェームス・ファロンという脳科学者の書いた「サイコパス・インサイド」。(ジェームス・ファロン 著, 影山任佐訳、金剛出版、2015年)この本はサイコパスに関する最近の脳科学の成果をまとめている。それによれば、大脳の前頭前皮質の腹側部という部分の活動が、サイコパスの人々では低下しているということだ。この部分は、人を共感に感情移入をする能力といわれる。つまり目の前で苦しんでいる人に対して、自分の心にも痛みを直接に体験することを通して共感する力である。ただし彼らは大脳の前頭前皮質の背側部分の機能は正常だし、私の想像だが、おそらく腹側部の機能が低下している分だけ、代償して、いわば過剰に働いているのであろう。
ひとつ驚くべきなのは、脳の共感の部分が働いていなくても、人は一見スムーズに、そしてあたかも共感の能力に優れているように行動できるという事実なのである。私の印象からは、2001年の大阪池田小事件の犯人である宅間守は、押しも押されもしない、典型的なサイコパスのナルシシストだが、彼は何度も結婚までし遂げている。これは驚くべき事実だ。かりそめにも結婚し、しばらく相手と共同生活をするためには、かなりその人には正常な部分があり、さらには信頼できるような印象を相手に与えなくてはならない。なぜ他人の痛みがわからない人が、曲りなりにも社会性を身につけるのかについては不明だ。しかしおそらくある種の知性はかなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。
私たち自身を振り返ってみよう。上司の葬儀に参列するという状況を考える。その上司は、実はほとんど会ったことがない人だったとする。その人の死去が自分の生活を直接変える要素は何もない。そのような場合、私たちはどれほど生々しい悼みの気持ちを持つだろうか? 飼っていたグッピーの「死去」の方がよほどこたえる場合だってあるのだ。それでもその上司の葬儀に参列する人たちの誰も、ニコニコ談笑したりせず、神妙な振る舞いをする。遺族に会うときには「言葉にならないほどの悲しみ」の気持ちを伝えるかもしれない。私たちは与えられた状況でどのような表情を作り、どのような言葉を発するべきかをきわめて正確に学習するものなのである。本物の共感なしにいかに人に本心を偽装したまま隠しとおせるか、ということを、この例は示しているのだ。
別の例を挙げよう。最近生まれたという親戚の写真を見せられて、人はどう反応するか。普通なら「まあ、可愛い!」と声を上げるのが当たり前のようになっているが、いったい男性のどのくらいが、自分とは血のつながりのない、しわくちゃな赤ちゃんの顔を見て「可愛い」と思うのだろうか?
(この記述は、かなりの反論が予想される。確かに赤ちゃんの顔は審美的にも十分美しいとは言えないものの、私たちの心の別のボタンを押すはずなのだ。たとえ人間の赤ちゃんを可愛いと思わなくても、犬や猫の赤ちゃんを見せられた男性は、おそらくたいていが「可愛い」と思うのではないか。しかしともかくも人間の赤ちゃんを見て可愛いと思うボタンが確かに女性には確実に備わっている気がする。これは実際に必要なことであり、そうでないと生まれたばかりの赤ちゃんに対する最初の重要な愛着が成立しなくなってしまう。自分の赤ちゃんを見たお母さんが、「まあ、ブサイク!」とつぶやくなどということはありえないことなのだ。
別の例を挙げよう。最近生まれたという親戚の写真を見せられて、人はどう反応するか。普通なら「まあ、可愛い!」と声を上げるのが当たり前のようになっているが、いったい男性のどのくらいが、自分とは血のつながりのない、しわくちゃな赤ちゃんの顔を見て「可愛い」と思うのだろうか?
(この記述は、かなりの反論が予想される。確かに赤ちゃんの顔は審美的にも十分美しいとは言えないものの、私たちの心の別のボタンを押すはずなのだ。たとえ人間の赤ちゃんを可愛いと思わなくても、犬や猫の赤ちゃんを見せられた男性は、おそらくたいていが「可愛い」と思うのではないか。しかしともかくも人間の赤ちゃんを見て可愛いと思うボタンが確かに女性には確実に備わっている気がする。これは実際に必要なことであり、そうでないと生まれたばかりの赤ちゃんに対する最初の重要な愛着が成立しなくなってしまう。自分の赤ちゃんを見たお母さんが、「まあ、ブサイク!」とつぶやくなどということはありえないことなのだ。
ともかくも、その自慢の赤ちゃんの写真を人から見せられて、絶句してしまう女性などありえない。そして写真を見せた母親は「みんなも可愛いと思ってくれている!」と思うだろう。これなども「共感」部分の脳の活動を欠いても、私たちがいかに共感的に振舞えるかを示しているといえる。そしてサイコパスの傾向にある人は、これらの場面を極めて巧みにやり通すことが出来るのだ。
不安や対人緊張の欠落も、ナルシシズムを促進する
それでは一部のサイコパスはどうして残酷に、苛酷になれるのだろうか? そこで注目しないわけにはいかないファクターがある。それは彼らの不安や恐怖の希薄さ、ないしは欠如である。少し前のページで、サイコパスの共感能力の欠如について述べた。人を共感し感情移入をする能力をつかさどる大脳の前頭前皮質の腹側部という部分の活動が、サイコパスの人々では低下していると述べた。
サイコパスの人たちの自律神経系の反応の低さは以前から指摘されてきた。簡単にいえば、彼らは不安でドキドキしたり、手に汗を握ったり、という体の反応に乏しいのである。彼らが自らの行為が招くであろう重い刑罰や社会的な制裁を想像しても、それが彼らの反社会的な行動を抑制しにくいのにはそのような事情があるのだ。
サイコパスのそのような性質は、まるで彼らが感情を持たない、ロボットのような存在ではないかという私たちの想像を促す。ところがそう言われた彼らの反応は興味深い。
ヘアの本にこのような例がある。
「冗談じゃない。とんでもないぜ。」「もしおれが感情を持ってないだなんて思っているなら、そいつは間違いだ。全くの間違いだ。おれはまさに感情的な男だし、体中感情だらけさ。」
20歳前後の女性を19人も誘拐して殺害した凶悪連続殺人魔、テッド・バンディの言葉だという。
しかしサイコパスは自らの感情を自由にコントロールして表現するようなところがある。突然スイッチが入ったように怒り狂い、残虐性を示す。かと思えば本当に人に同情しているかのごとく涙を流す。女性に対して心からの親愛の情を示しているかのように映る。それらの感情表現の巧みさもまた、他人をだまし利用するための貴重な道具なのだ。
サイコパスのそのような性質は、まるで彼らが感情を持たない、ロボットのような存在ではないかという私たちの想像を促す。ところがそう言われた彼らの反応は興味深い。
ヘアの本にこのような例がある。
「冗談じゃない。とんでもないぜ。」「もしおれが感情を持ってないだなんて思っているなら、そいつは間違いだ。全くの間違いだ。おれはまさに感情的な男だし、体中感情だらけさ。」
20歳前後の女性を19人も誘拐して殺害した凶悪連続殺人魔、テッド・バンディの言葉だという。
しかしサイコパスは自らの感情を自由にコントロールして表現するようなところがある。突然スイッチが入ったように怒り狂い、残虐性を示す。かと思えば本当に人に同情しているかのごとく涙を流す。女性に対して心からの親愛の情を示しているかのように映る。それらの感情表現の巧みさもまた、他人をだまし利用するための貴重な道具なのだ。
一つ言えることがある。それは彼らが快感追求型であるということだ。それだけは間違いなく言彼らの行動の特徴であるい。サイコパスたちが本当の意味で心を動かし、素(す)になれる瞬間。それはスリルを味わうときであり、興奮を体験している時である。人を上手くだませた時。人を殴りつけて拳が相手の骨を砕く感覚を味わった時。脱獄をしてパトカーのサイレンに追われている時。コカインを鼻から啜っている時。セックスに浸る時。夜中の高速道路を爆走している時・・・・。ある意味で彼らの感情は快か不快かのきわめて単純なスイッチのオン、オフでしかない。しかも極端な不快は直ちに相手への攻撃により解消が図られてしまう。彼らは持続的に苦しみを味わって鬱になる能力がないのだ。
サイコパス的なナルシシストは、感情的にはモノクロか、二色刷りの人生しか送っていないことになる。彼らは自分や他人の感情の微妙な濃淡は味わえない。料理でいえば、極端に甘いか辛いかしかわからず、微妙な味わいがわからないのだ。ある意味で快感の感度が鈍っている。脳科学的に言えばドーパミンの受容体は、より多量のドーパミン刺激で持って初めて興奮する。だから人の何倍の興奮を追い求めているのだ。
サイコパス的なナルシシストは、感情的にはモノクロか、二色刷りの人生しか送っていないことになる。彼らは自分や他人の感情の微妙な濃淡は味わえない。料理でいえば、極端に甘いか辛いかしかわからず、微妙な味わいがわからないのだ。ある意味で快感の感度が鈍っている。脳科学的に言えばドーパミンの受容体は、より多量のドーパミン刺激で持って初めて興奮する。だから人の何倍の興奮を追い求めているのだ。
不安や緊張の欠如は、サイコパス一般の性質と考えられるが、サイコパス型のナルシシストにこのような性質が伴っていることを考えると、彼らがいかに冷酷に他人を支配し、時には人の命を奪うかということにも思いが及ぶ。
サイコパス的なナルシシストについて考えるときに私の頭にしばしば浮かぶのは織田信長である。自分の戦略や野望にとって必要であれば、肉親の命まで奪うという冷酷さはしばしば彼の武勇伝の一部として語られるが、彼こそ痛みや不安を感じにくい性質を有していたのではないかと思う。津本陽の「下天は夢か」に印象深いシーンがある。ある京都での戦いで、打ち取った相手方の生首を信長が平気で検分する。しかし時の将軍義昭はたちまち吐き気がして青ざめてうつむいてしまう(第4巻p181)。
そもそも敵の死体や、その中でも最もむごたらしい頭部を何百となく確かめても、信長は動じない。そのくらいでないと戦国の武将は務まらないというのも確かな話ではあるが、彼らはある種きわめて鈍感で、人をモノとしてしか見ていないところがあった。現代の世の中に生きていれば、サイコパス的な要素を極めて強く持っていたと言えるであろう。