2015年8月11日火曜日

自己愛(ナル)な人(推敲、1/50)

中学時代の、一時期は無二の親友であった香川俊介君の死を知った。財務省のエリート官僚であり、数々の仕事をこなしたという彼を、私は13歳のサッカー少年でしか知らない。安らかに眠って欲しい。


今日から推敲版。赤字は追加事項。誤字、変換ミスもおそらく少なくなっているはずである。


はじめに
世の中は自己愛的な人間であふれている。自己愛とは英語でナルシシスティック narcissistic なので、本書では「ナルな人」、といういい方もしよう。インターネットやスマートフォンがますます普及しているこの頃、ブログやツイッターで自己表現をする機会が増えたのも関係しているかもしれない。
 私はそれが
別に悪いことだとは思っていない。私たちの中には、強いリーダーシップを取る人、断言口調でものを言う人、有無を言わさずに道を指示してくれる人を求めている人もいるのだろう。たちの悪くないナルは、私たちにとっての指導者でもある。
 でもそれにしても酷すぎはしないか。私たち国民の99%は、おそらく自己愛的な人々により、悪い方向に人生を支配されている、というのが実情なのだ。
自己愛的な人として私が本書で取り上げたいのは、何も傲慢な政治家や役人や上司や、大学教授や医師や弁護士だけではない。家に帰れば「大ボス」がいて、箸の持ち方、歯ブラシの使い方、トイレのフタの閉め方一つにまで「指導」が入るかもしれない。もちろんそれはカミさんかもしれないし、亭主かもしれないし、年老いた母親かもしれない。気弱な人々(ナルな人々の対極の人々である)は、そのそばにいるだけで圧倒され、あるいは逆らうことが面倒臭くなり、結局支配される。そうすることで関係は一応は安定し、ナルな人の存在は覆い隠されてしまうかもしれない。その意味での隠れナルはいたるところにいるはずだ。
 あるいは「あなただけにとってのナル」という存在もいるかもしれない。その人は会社で、家で、あなただけにぞんざいな口のきき方をし、暗に命令を下してくるのだ。それ以外の人には愛想をふりまき、同僚や上司にその人の評判をそれとなく聞いてみても、Aさんって、そんな人じゃないよ。意外といい人だよ。」となる。あなたは「Aさんを誤解しているんじゃない?」「あなたのやっかみじゃない?」などと言われてしまい、誰にも理解されずにさびしい思いをするのである
本論でも詳しく述べるが、自己愛は人間の体や力が増し、世の中で地位を築くにつれて、ごく自然に肥大してく性質のものだ。だから人生の後期により顕著になる。しかし子供には見られないかと思えばそんなことはない。すでに幼稚園にはいじめが存在する。そのいじめの中心には何らかのボス的な存在がいる。将来の自己愛的人間の最有力候補である。
 私はこの自己愛の問題を困った問題だと思うが、それが現代における社会問題だとネガティブな問題としてのみとらえるつもりはない。自己愛的な存在は、おそらくサルやオオカミなどの群生動物に特有な性質に関係している。偉そうに群れの中をのし歩くボスザルは、サル社会のナルシシストというわけだ。人間も同様に、社会の中で序列や順位を必要としている。要するに人と顔を合わせるたびに、どちらが強いか、ということだ。それを敏感に察知することから社会生活が始まる。その序列により生じる力学を、いかに自分のために用いようとするかによって、その人のナル度が決まるのだ。
 1.そもそも自己愛とは何か?
 ナルシズムの概念は、ギリシャ神話に出てくる少年ナルキッソス Νάρκισσος, Narkissos の話にさかのぼるとされる。
 ナルキッソスが森で水を飲もうとして湖の水面を見ると、美しい少年が見えた。もちろんそれはナルキッソス本人だったが、その姿にひと目で恋に落ちたナルキッソスはそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだ、という話である。
 つまりナルシシズムとは、自分にほれ込む、自分におぼれるという意味を持つ。日本語の自己愛がその正確な訳かといえば議論があるようだが、一応ナルシシズム=自己愛、という関係はもう常識の範囲なので、あまり疑問をもたれることはない。
 ところで私はこのナルキッソスの話を最初に聞いたときから、しっくりこなかった。私はナルキッソスは水面に浮かんだ姿を「他人の姿」と思いこんでしまったのではないかと思うのである。だから恋い焦がれたのだ。人は、他人に恋するように自分に恋い焦がれることは絶対にない。恋する対象は自分からは見えないところにいて、いくらでも想像をかき立てられる存在でなくてはならない。恋はまだよく見えない対象に対してのみ成立する。だからこそ相手をもっと知りたい、もっと知りたい、という強烈な願望が芽生えるのだ。
 このように考えると、ナルキッソスがそうしたと言われるように
自分に恋した」「自分にほれ込む」、という表現は実は普通は起きない現象なのである。少なくともナルキッソスの心に起きていたのはそれではなかったのだろう。彼は美しい少年を、自分自身と気が付かずに恋してしまった、それだけである。しかしそうなるとナルキッソスはナルではなかったということになるので、ヤヤコシイ。そこで自己愛=ナルシシズムを以下のように定義しよう。少なくとも本書ではそうである。
自己愛とは、「自分はイケてる、カッコいい」という気持ちに浸って満足することを言う。自分の満足を優先する傾向、自己満足に浸る傾向として、単純に理解されるべきなのである。そしてすぐ問題になってくるのが、その自己満足のためにいかに他人を踏み台にするか、自己の利益を他人のそれに優先させるか、という点である。その点に、ナルシシストが社会に害を及ぼすタイプのものかどうかがかかってくる。
私が述べている自己愛について、明石家さんまさんの例を出そう。昔テレビで大竹しのぶさんが、元夫のさんまさんについて話していた。ずいぶん昔のことだから詳しい表現は不確かだが、次のようなことを言っていた。「この人はビュッフェ形式のレストランに行くと、一人で食べ物を取りに行って、さっさと席について食べ始めちゃうような人なんです。」
 大竹さんは、さんまさんの自己愛的なところについて言っていたわけであり、確かに彼には自己陶酔的なところがあると私も思うが、それは彼が「自分に恋していた」ということとは違う。またこのビュッフェでの行動に見られるように、彼には自分の欲求の満足をことのほか優先する傾向もあるのだろう。しかし彼には同時に他人への気配りも旺盛であると聞く。その限りにおいて、彼はあまり他人をこまられるナルではないということだ。
ところで社会に生きる私たちは自分の満足だけでなく、それが人の満足とどのような関係にあるかに常に注意しなくてはならない。それは突き詰めて言えば、「自分が満足することで、他人の満足の機会を奪ってはいないか?」ということだ。
 社会でうまくやっていける人の多くは、自分がハッピーで他人もハッピーな状態で、ようやく本当の意味でのハッピーさが長続きするという事情をわかっている。そしてそのためには、他人のハッピーさに関する想像力が必要になるのだ
 自分だけがハッピーになるためには、あまり想像力は必要ではない。自然と湧き上がってくる欲望に従えばいいからだ。すると人に迷惑をかける自己愛の人は、他人のハッピーさを想像する力が欠けている人、ということになる。すると自分の満足のことしか考えず、他人のことを顧みないことになり、それが周囲を怒らせたり、ガッカリさせたりするというわけだ。
自己愛の本質部分は「イケてる自己イメージ」との同一化だ
ここでもう少し本格的な自己愛の説明を加えておきたい。
私の主張を繰り返すと、自己愛=ナルシシズムを「自分を愛すること」と考える必要はない。自己愛、とは「自己を愛する」という意味だが、本当はそのようなことは起きない。そうではなく、自己愛とは「自分はイケてる、カッコいい」という気持ちに浸って満足する傾向だと理解しなくてはならない。この辺の説明がもう少し必要だろう。
私の学位論文は自己愛に関することだが、20年前の論文のテーマは今でも常に私の頭にある。それは、人の自己イメージには、理想化されたイメージと、駄目なイメージがあり、その間を頻繁に揺れている、という考えである。この二つに分かれた自己イメージという考え方がポイントだ。そしてこれは自己愛的な人では必ずしもなく、人間みなが持つ傾向だ。ただし自己愛的な人は、この二つの自己イメージの離れ具合がより大きい、という特徴はあるが。
人は育っていく過程で、親を見て、漫画を見て、ドラマを見て、学校の先生を見て、クラスメートを見て「すごいな、あんなふうになりたいな」と思うことがある。実際にその人になったことを想像することもある。一種のファンタジーを抱くのだ。
 たとえばクラスに成績が優秀な友達A君がいて、いつも漢字テストで100点を取る。「あんなふうになれたらな」。と思う。でもすぐに現実に戻り、「でも自分はまだだな」という感覚を取り戻す。
 ところがテストで自分も漢字テストで100点を取ることもたまにはある。するとそれを横から除いた友達から、「すごいな、うらやましいな。」と言われたりする。そして「あれ、僕ってA君みたいにすごいのかな?自分ってイケてるのかな。」と思うこともある。実際にはいつも100点を取っているわけではないので、自分はA君とは違うのだが、それでもA君のようになったかの気分を味わう。そして少しの戸惑いとともに喜びを感じるだろう。自己愛とはこの瞬間に体験される。それまで自分とは異なると思っていた姿に、自分が重ねあわされることによる快感。でもおそらく翌日のテストでA君はまた100点なのに、あなたは80点しか取れず、「ああ、やっぱり僕はA君じゃなかったんだ」となる。自分の現実の姿と、「イケてるイメージ」はふたたび大きく分かれてしまうのだ。
もちろん自分は現実に100点を取らなくても、想像力を働かせたら、A君になれるし、そのときは偽りの自己満足を味わう。でも次の瞬間には「でも、これって現実じゃないよね」となり、軽い失望を味わうことになるだろう。どうしてこの時の失望が「軽い」かといえば、想像力を働かせてA君になっているとき、「これはホントーじゃない」という認識が脳のどこかに存在するからだ。これを現実検討能力という。これがあることで、自分自身に予防線を張り、偽りの自己満足はそのピークに達することはない。
 ところで人間はこの種の偽りの満足と失望を、それこそ毎日のように体験している。ここでは自己イメージの話題から少しはなれて考えよう。
 夏の暑い日に汗水流して働いていると想像しよう。ふと仕事の手を休め、「仕事が終わったらビールだ・・・・」と想像して、一瞬うっとりする。でも「あと仕事終了まで3時間だ。がんばらなきゃ」となる。その時ビールをゴクゴク飲む自分を想像しても、それは本当の快感ではない。でもほんのちょっとは快感なのだ。もちろんすぐに「今目の前にビールはない」という現実検討を取り戻す。しかしほんのちょっとの快感の「味見」をしているので、それを実際に体験しようと、仕事に励む。人の脳はそのように出来ているのだ。
ふたたび二つの自己イメージの話に戻る。
自己愛(ナル)の本質部分は、「イケてる自己イメージ」を膨らませた時、それと自分を一瞬重ね合わせて「味見」をした時に、どれほど大きな快感を得るか、という問題に繋がる。

 例としてイチローのような大リーグのスターになることを夢見ている野球少年を考えよう。それをイメージしたときにどれほど嬉しいか、ということでその人の自己愛のレベルが決まる。ここで注意してほしいのは以下の点だ。
どれほどイケてる自己イメージをリアルに体験できるかが、自己愛度を左右する。これはいわば自分をどこまでだませるか、ということにもなる。体力も貧弱で才能のかけらもなくても「俺は将来大リーガーだ!」という少年を考えてみる。彼は実際にリトルリーグに入団して、将来はアメリカに野球留学をするという、実現しそうもない計画を語り、周囲からもトンでもないナル人間に見られてしまうだろう。そして彼は本気でそのようなファンタジーを描いているという点において、実際にナルシシズムの問題を抱えていることになる。
 でもその少年が自分の身の程を知っていて、イチローのようになるというファンタジーを楽しんでいたならも、実際には町の少年草野球チームの球拾いから始める覚悟であるならば、だれも彼のことをナルとは思わないのだ。その場合イチローになることを以下に想像しようと、同時にそれが無理であることが分かっているはずであり、そこに自己陶酔は伴わないはずなのだ。
 
これまでの議論で、自己愛を形作る重要な要素は3つあることになる。
1.  イケてる自己イメージがどれほど高いところに位置しているか?
2.  どこまでその自己イメージに同一化して、陶酔する(自分をダマす)ことが出来るのか?
3.  自己陶酔を得るために、どれだけ他人を犠牲にするか?

このうち、1,2大きいほど、その人のナルシシズムも深刻ということになる。その意味でここが自己愛の中核部分なのだ。そして3の要素は、その自己愛が、人を困らせ、社会に害を及ぼすか、という点に関わる。

この議論をもとに、ナルシシズムをいくつかのパターンを分けて論じるのが、本書の趣旨である。それらは以下のように分類される。