2015年8月12日水曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 2/50)

2.厚皮型の自己愛者 
精神科の世界では、いわゆる「厚皮型」の自己愛者と、「薄皮型」の自己愛者という分類が行われている。精神医学では自己愛パーソナリティの話はずいぶん昔からあったが、厚皮型とは、いわゆる典型的な自己愛者と見ていい。要するにツラの皮が厚い、厚顔無恥、の人という意味で、あとに出てくる「薄皮」タイプと正反対である。これまでの自己愛パーソナリティとして一般に論じられていたのは、このタイプなのだ。小此木先生は自己愛パーソナリティについて日本で論じ始めた人々の一人であるが、彼の本(1986年の「自己愛人間」)に出てくるのも主としてこのタイプの人だ。
まず最初に例を挙げてみよう。
ある大学の整形外科のA教授(60歳、男性)は、医局員から結構ひんしゅくを買っている。彼はその地方大学の出身であり、出世頭で業績も確かなものがある。だから教授にはなるべくしてなったのであろう。後輩の面倒見も悪くはない。鷹揚で悪気のない性格もそれ自身は問題ない。しかしA教授が彼の趣味に医局の全員を従わせようとするのが問題なのだ。
 飲み会に行くとA教授の自慢話が始まり、しかも同じ話が多い。国際学会で発表をしたりすると、その後半年間はその時の思い出話が繰り返され、しかも少し酒が入るとそれが繰り返しという認識がなくなるらしい。また彼は学生時代にバンドをやっていたというのだが、なんと家で妻と娘を誘い、バンドを結成してしまう。そしてその様子をCDに焼いて医局員に配り、その感想をしつこく聞くのである。
 A教授には著書も多く、テレビ出演も時々ある。その時は医局員はあらかじめその番組を見るようにしつこく言われる。もちろんその番組を録画したものはDVDに焼かれる。次の日の昼休みはその鑑賞会になるのだ。A教授は取り立ててイケメンということはなく、むしろ「ナンとか原人」を思わせる風貌である。低身長、頭髪もM都知事といい勝負、というのでは、女性の医局員やナースが騒ぐということもない。教授という立場は大きな力の集中する地位であり、それにしたがって注目を浴び、丁重に扱われるのはむしろ当然であるが、それ以上に扱われるにふさわしい人徳がA教授に備わっているということもない。
 A教授は特に誰に憎まれているという訳ではないが、皆が不思議に思うことがある。どうしてあれほどまでに、自分の書いたもの、話したことを医局員に見せ、聞かせたがるのか、あるいはそうすることが迷惑だと思われている可能性が、どうして頭をよぎらないのか、ということである。彼の頭には「自分が受け入れられない」という発想がないかのようなのだ。
これを読んだ方は、あるいは呆れるかもしれないし、「いるいる、こういうタイプ。うちの上司は大学教授じゃないけれど、それ以外はそっくり」と思うかもしれない。ある程度社会経験を積んだ方は、自分がこれまで出会った上司が、このA教授のレベルか、そこに至る途上にいるかであると感じる場合も多いのではないか。
通常自己愛パーソナリティとして描かれている人々は、だいたいこのA教授の路線と考えていい。自分の周囲の人が、自分に注目し、関心を寄せていることを前提とし、それを疑っていないタイプ。注目を浴びることを前提として振る舞っているので、それが裏切られた場合は、その部下に対して激しい怒りをぶつけることもある。後に述べるように、この種の自己愛人間は、自分のプライドを傷つける人に対しては激しく牙をむくという特徴を有するのだ。
 この「厚皮の自己愛者」は、精神医学の世界では比較的以前から論じられてきた。その始まりは、だいたい19世紀の終わり、フロイトの時代にさかのぼる。以下のような記述を見る事が出来るだろう。

 ナルシシズムという言葉は、1895年に性科学者ハヴロック・エリスが、すでに紹介したギリシャ神話のナルキッソスの物語を引用し、自己の没頭する患者を報告したのが最初である。その後に1899年にはポール・ネッケが、その著書でナルシシズムという新しい概念を紹介したと記述されている。
 そしていよいよフロイトの登場である。1909年にはジークムント・フロイトが対象愛の前段階という意味で、このナルシシズムという言葉を用いた。精神分析の文脈で用いられるナルシシズムは、このフロイトの著作で大きく色づけされることになる。リビドー論に従ったフロイトの理論は、この言わば生命エネルギーとも考えられるリビドーが、まずは自分自身に向かっていくものと考えた。そして次に外界の他者に向かっていくのであるが、それが再び自分に戻ってしまった状態、つまり二次ナルシシズムとして、統合失調症を考えたのである。
確かに母親やそれ以外の他者を明確に認識するようになる前の乳児は、自分自身の世界に引きこもっているようにも見える。後にマーガレット・マーラーという分析家が「正常な自閉期 normal autistic phase」と表現したのも、この時期の生後45か月までの乳児である。これをナルシシズムと称する気持ちもわからないでもない。ナルシシズムも自分に陶酔し、自分にのみ注意を向けているという意味では似ていないこともないからだ。
ただしいったん外に向かったリビドーが、統合失調症の状態においてまた自分に戻ってしまっているという説については少なくともフロイトの後継者にはあまり受けがよくはなかった。その後に分析の世界で論じられたナルシシズムは、だいたいがこの章で紹介している自己陶酔型、厚皮型のナルシシズムに準じている。
1933年にはヴィルヘルム・ライヒがはじめて誇大的な人物像である男根期的自己愛性格を人格の病理として記載したとされる。そして1946年にはオットー・フェニケルが自己愛人格あるいはドンファン性格として記載した。この二人の業績は、のちの自己愛の概念の形成に大きな影響を与えたと言えるだろう。
自己愛の議論が精神分析において大きく花開いたのは、1960年代のオットー・カーンバーグやハインツ・コフートによる議論であった。カーンバーグは自己愛性人格構造という概念を導入し、その頃のボーダーライン人格障害の概念とともに、人格障害に関する活発な議論への道を開いた。もっとも「ジンカクショウガイ」という呼び名の響きは、のちに差別的な印象を有するようになり、最近ではもっぱら「パーソナリティ障害」と呼ばれるようになっている。
 ナルシシズム=自己愛の概念が、いよいよ精神医学的に正式に認められたのは、1980年に発表された診断基準DSM-IIIにおいてであろう。この診断基準は、またその頃勢いが残っていた精神分析の影響を受け、特にこのカーンバーグ、コフート論争(二人はライバルで、結構両者の論争は盛り上がったのだ)の影響を大きく受けていたと言える。その後精神医学の世界でも、ナルシシズムの概念はすっかり定着したと言える。2013年に登場したDSM-5においても、もちろんこの概念はしっかり踏襲されているのだ。1968年ハインツ・コフートによる自己愛性パーソナリティ障害[7]の提唱により、誇大的な自己像を抱え社会生活に支障をきたす一群の疾患単位が提唱された。1980年に発表されたDSM-IIIによって自己愛性パーソナリティ障害概念が定義され、DSM-5へと引き継がれ現在に至っている。
ここで現代的な自己愛者の典型について示そう。典型的な、とは要するに厚皮型の人たちだ。DSM5では「自己愛パーソナリティ障害(NPD)」について、以下の通り定義してある。

「誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。」
1.     
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績が ないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2.     
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3.     
自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係があるべきだ、と信じている。
4.     
過剰な賛美を求める。
5.     
特権意識(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)
6.     
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
7.     
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
8.     
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9.     
尊大で傲慢な行動、または態度

さてここまで書いたところ、編集担当者(新登場)から質問が舞い込んできた。
「DSMで定義されている診断基準ですが、やはり何度読んでも、病的か病的でないかをどこで線引きするのだろうという素朴な疑問が生じます。 (中略)そこで、『どこで線引きするの?』というあたりを、もう少し教えていただければと思います。」
ところでこの診断基準を一読した方の中には、いったいどこまでが病的で、どこからが正常化がわからない、という印象を持つ方もいらっしゃるかもしれない。確かにここに掲げられた1~9までは、程度の差こそあれ、ある程度は皆が持っている傾向なのである。たとえば9の「尊大で傲慢な行動、または態度」は、「ある程度なら、そのような態度を示した「こともあった」という条件が付くなら、ほとんどの人が該当するのではないか。一応この9つのうち5つに当てはまる人が、自己愛パーソナリティ障害の診断を満たし、それ以下(例えば34つならあてはまる、という場合)なら自己愛パーソナリティの傾向trait がある、という言い方をする。それにしても「程度問題」なのである。
この精神医学的に定義された自己愛パーソナリティについて理解していただきたいのは、このようにパーソナリティの問題というのはかなりあいまいな部分を含み、そのごく軽い傾向であれば、私たちの大部分が長い人生のいつかは体験しているようなことでもあるのだ。ただしこれらの基準のほとんどを明らかに満たす、という人物(例えば上の例に挙げたA教授)もいて、そのような場合に私たちはこの自己愛パーソナリティの典型を見ることになるのである。