2015年8月10日月曜日

自己愛(ナル)な人(60/100)(完)

さっそく三島さんの記述に関して、フィードバックを頂いた。しかし読み直してみると、相当誤字があるな。呼んだ ← 読んだ、とか。しかし出先のPCでは直せない。まあ、一筆書きだから仕方がない。

最後まで残ってしまった、三島由紀夫の加筆部分。「男の世界」には結局三島の記述はほとんど出てこない。
私の呼んだ石原さんの三島像としては、こんなことが書いてあった。
「三島由紀夫は徹底して自分を作り、男らしさを演出したが、結局本当の意味でそれを実現できなかった。たとえばボディビル。彼の肉体は最初から貧弱な体躯にトレーニングを積んだだけだから、言わば茶筒に筋肉だけを付けたようなものだ。」「三島さんが、居合の稽古の帰りだといってこれ見よがしに真剣を持ってきた。そしてその場で抜いて見せてくれたのだが、もともと運動神経がないものだから、距離感がわからなくて、鴨居に刀傷をつけてしまった。三島さんはばつの悪そうな顔をして、『また君はこれをどこかで書くんじゃないか』と言った」というような記述だ。このブログを読んでいる人(想定では34人)が、ご存知なら教えてほしい。
ともかくも男の世界は図らずも石原慎太郎自身のナルシシズムが滲み出た本だが(なにしろ彼は一人称を「俺」で通しているのである。)、そこでひときわ男の中の男として描かれているのが、小林秀雄なのだ。これはとてもわかる気がする。
それにしても私は石原慎太郎と三島由紀夫ではどうしても後者に肩を持つ。それは結局は石原氏のナルぶりが、三島氏のナルぶりよりも気に食わないからだろう。石原氏はいわば文壇で自分を持ち上げてくれた恩人である三島氏に関して、当人が絶対言われたくないことを言っている。彼は自分の才能や体格や家柄や容姿に(あれでも昔はとてもいい男だった)恵まれていて、それを持たない人への同情心がなかった。他方の三島氏は、「危険なレベル」とでもいうべきほどの運動音痴であったという。いわば「肉体弱者」だった。私はボディビルこそしたことはないが、肉体弱者である。だから慎太郎氏のような人を、恵まれていて苦労知らず、とみてしまう。
 昔週刊誌に宮崎学氏が連載をしていて、石原兄弟との交流について論じていたが、慎太郎氏に関する彼の人物評はさんざんである。それに比べて裕次郎はいかに他人への配慮が行き届いた愛すべきナルシシストであったかも書かれていた。(おそらく「突破者」という書籍にまとめられているが、不確かである。)


ともかくもこれで60回分。A4120枚くらいか? まあまあの量である。明日からは推敲編、となる。