2015年8月8日土曜日

自己愛(ナル)な人(57/100)

東京はいったん猛暑が収まったやれやれ。

 カーンは非常に自己愛的で、自らを「長身でハンサムで、ポロとスクワッシュが得意。高貴の出で極めて裕福である。」と自己紹介するほどの自信家であった。彼には微小な奇形があり、右耳が少し突き出していたという。欧米では耳が立っていることを非常に気にする人が多いが、彼もその例外ではなく、ベレー帽などを被ってそれを隠すことが多かったが、ウィニコットに促されて矯正してもらったという。
 カーンの自己愛的な問題は人生の後期に更に目立ち始め、人に自分を「カーン王子」と呼ぶよう強制し、自分でもサインにそのように書いたが、その地位を正当化するような根拠は結局見つからなかったという。彼は非常に活動的でチャーミングであったが、唐突に分析的な洞察を織り交ぜた言葉を人に発し、それが侵入的で攻撃的なニュアンスを含んでいたという。せっかくの精神分析のトレーニングも、彼の自己愛的な傾向を悪化させることに繋がっていた可能性がある
カーンの人格的な面についてはいろいろ取りざたされ、ウィニコットとの15年にもわたる分析が持っていた意味についても様々に論じられた。簡単に言えば、「15年も何をやっていたの、ウィニコット先生!」というわけだ。たとえばウィニコットは逆転移における憎しみについてたくさん書いたが、カーンの分析に関してはその処理に失敗し、結果的に彼の性格的な問題を助長したのではないかとも言われる。しかし私はこの意見には反対だ。(私はウィニコット贔屓である。)人格の中には、精神分析では扱えないものはいくらでもあるということを示しているかもしれないし、またウィニコットの15年の分析があったから、カーンの問題は「この程度で済んだ」、という可能性もあるのである。
 カーンは1965年には、IPA(国際精神分析協会)に対して不適切な手紙(私も内容は知らない)を書いたことや彼のアルコール問題が深刻になり、結局IP
A
から追放されたのだが、その頃から、患者との性的関係が始まったらしいという。彼は1970年代前半に、母親とウィニコットが間をおかずに亡くなってから明らかに調子を崩したという。ある時はレストランで、太った客にケーキを送り、「これを食って早く死ね」と叫んだという。
1976
年には英国精神分析学会からも、訓練分析家の地位をはく奪されている。そして1988年には反ユダヤ主義と反精神分析的な考えに染まった本トンデモ本を出して、最後に英国精神分析協会から追放された。
カーンが1989年に亡くなった時、人々は彼の明晰な頭脳をたたえるとともに、彼が自己愛的で、嘘つきで、スノビッシュで、残酷な側面を持っていると毀誉褒貶の内容の追悼文を目にすることになった。

カール・メニンガー

手元に文献はないが、彼のことならそのまま書ける気がする。
カールメニンガもまた毀誉褒貶の多い人であった。彼は私が留学していたメニンガークリニックの創設者のひとりであり、高名な精神科医、かつ精神分析家として、彼の噂はかなり知れ渡っていた。彼がいかに天才的な頭脳を持ち、数々の著作をものにし、メニンガーの名前を高めたのか。そして同時にいかに彼が暴君で自己愛的で多くの被害者を出したのか、ということである。メニンガー家についての様々なスキャンダラスな出来事が一気に知れ渡ったのは、1992年にローレンス・フリードマンの「メニンガー:その家族とクリニックMenninger:
The Family and the
Clinic
」という本が出版されてからである。この本は余りにあからさまにメニンガーファミリーの内情を書いたために、メニンガークリニック内ではいわば焚書扱いになり、メニンガー図書館にもこの本は入れないことになってしまった。しかし私はこの本によりアメリカにおける精神分析の歴史の一端を知ることができたと思う。
  メニンガークリニックは、その父親チャールズと二人の息子ウィリアム、カールによって1919年に創設された。もう100年も前のことである。
1942
年にメニンガークリニック内に、「トピカ精神分析研究所」を開設し、1945年には「メニンガー精神医学校」を開校して、メニンガー・クリニックは精神病者の診療だけではなく、精神分析家のトレーニングや教育を行う、世界的な力動的心理学(力動精神医学)の研究・臨床の拠点として大きな発展を遂げることになった。
(
ちょっとコピペ)
カール・メニンガーは、学者としては一流であった。彼の主要著作には、自殺心理の生成をフロイトのタナトス(死の本能)の概念を参考にして研究した『己に背くもの(1938)』、治療同盟や固着・退行の病理メカニズムに注目した『精神分析技法論(1958)』、人間の愛情と相互的に作用する憎悪について考えた『愛憎(1942)』など様々なものがあった。
これらの著作は広く読まれ、カールは精神医学の世界では、サリバンに並ぶような地位にまで押し上げられた。1950年代は彼の絶頂の時期である。
 カールはフロイトに心酔していたと言っていい。フロイトがユダヤ人として迫害を受け、亡命する際には、メニンガークリニックに来てはどうか、と誘いの手紙を書いたとも言われるが、結局シカトされてしまったらしい。フロイト自身は非常にプライドが高く、「アメリカのような野蛮な国になど行くものか」という偏見に満ちた姿勢を保っていた。それでもカールは精神分析家になる道を邁進し、兄のウィリアムとともにシカゴまで汽車で何時間もかけて週末に通い、分析を受け続けたという。
ところが名実ともにメニンガークリニックのボスとなったカールはその横暴ぶり、ワンマンぶりが非常に目立つようになった。クリニックには弟のウィリアムが居たが、彼の方は温厚でスタッフ受けは良かったらしいが、カールは感情的で物事を自分の思うがままに動かせないと癇癪を起すところがあった。しかし他方では患者に示す非常に繊細で愛他的な態度を示す、という二面性もあった。
カール・メニンガの自己愛的な振る舞いは、しかしやがて報いを受けることになる。それが1960年代に起きた事件で、彼の横暴ぶりに嫌気がさしたスタッフたちが、ウィリアムの協力を得て、彼のオフィスを撤去してしまったのである。