2015年8月16日日曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 5/50)

「厚皮」と「薄皮」は表裏一体である
これまで私は、半ば意図的に「厚皮型」のナルシシズムと「薄皮型」のそれとを対立させて描写した。しかしこれは少し極端な議論ともいえる。実は「厚皮」も「薄皮」も私たちがみな少しずつ持っている傾向と言えるのだ。
 人間は物事が調子よく行っている場面では、結構強気になり、自己愛的な満足を得ることに積極的になる。しかしそうでない場合には自分に自信がなく、恥をかくことにおびえて引っ込み思案になりやすい。この両極端の傾向を持ち、その間を行ったり来たりするというところが、まさに自己愛の病理と言えるのだ。いわば「厚皮」と「薄皮」は同じ自己愛の病理の両面ともいえる。それはどうしてだろうか?
 「厚皮の自己愛は叩き上げ」、という言葉を思い出していただきたい。最初から厚皮、という人は例外なのだ。最初はみな薄皮で、他人、特に自分より上位の人たちの目にビクビクし、のちに彼らに取り入りることを覚え、彼らの自己愛を満たすことで生き延びていく。そうして上には取り入って下を支配するというすべを覚えて階段を上っていく。上に対しては「薄皮」で、下に対しては「厚皮」で対処する両面性を持つことが自己愛な人の生き方である。(もちろんそれがベストではないかもしれないが、人間社会で生きていくとは多かれ少なかれそういう側面を持っている。)
 もちろんその人のもともとの性格もある。生まれつき特に薄皮の人はいるのだ。その人たちは「薄皮型の自己愛者」の一番の候補者といえる。しかし気が弱く批判に敏感というのは、特定の集団において最下層から上を目指す人たちにある程度は共通した特徴とも言えるだろう。
事例)
ある中年の男性内科医。某病院の科長をしているが、強引でワンマンだという評判である。自分の決めたルールには、部下の医師も看護スタッフもすべて従うことを徹底し、気に入らない部下に対しては、しばしば声を荒げて叱責する。しかし大学の大先輩である内科教授を招いての親睦会では、末席に位置して大教授に完全服従の姿勢を取り、その猫なで声に彼の部下一同が唖然とする。立食パーティの席で大教授に食事を取分けて運ぶ課長の姿がとりわけ印象的であり、そこにはいつもの課長とは全く異なる姿が見られた。
このような姿は取り立てて事例として出すまでもないかもしれない。この課長ほど極端ではないとしても、縦割りの社会に生きる人間にはしばしばみられる姿なのだ。問題は上に媚びる極端さが、下への態度の傲慢さと比例する傾向にあるということだろう。

「厚皮」と「薄皮」はしばしば混在している!- オザワさん(仮名)の例
恥を感じる敏感さと傲慢さが共存する例として私の頭にまず浮かんでくるのが、オザワさんだ。彼はコワモテ、剛腕で知られている。しかし実は繊細で気の弱い点を併せ持っているようである。いかに事例風にまとめてみる。
某大物政治家オザワ(仮名)氏。若い頃から派閥の領袖に目をかけられ、有能、剛腕の名を欲しいままにした。将来の総裁候補。政治の場面ではしばしば果敢で時には破壊的な行動を起こし、そのために周囲から畏怖の目でも見られる。しかし同時にきわめてシャイで人と会う際の緊張が強い。出来るならカジュアルな対人場面は避けたいと常に思っているようである。その結果として人と会っても仏頂面で特に口も利かないのでとっつきにくいとも言われる。支持団体に顔を頻繁に出すことをせず、徐々に信用を失う。妻を含んだ家族への思慮に乏しく、家の中でも孤立している。苦みバシった強面(コワモテ)とは裏腹に、本人は心の底では自分は東北出身の田舎者という気持ちが抜けない。自分は人から好かれていない、人は自分から遠ざかるという気持ちがある
昔読んだ逸話であるが、あるとき小沢さんがある後輩の政治家と会っていたが、強面を崩さずに打ち解けず、怖い雰囲気だったという。ところがふとしたことからその政治家の出身も同じ東北地方の県だと分かると、「なんだ、あんたも同じ県出身か!」と単にオザワさんの相好が崩れ、すっかり打ち解けた雰囲気になったという。つまりコワモテのオザワさんは、実は相手を警戒して、というか対人緊張気味になっていたから堅苦しい表情になっていたということではないか。相手の正体がわかって(あるいは分かった気になって)一気に彼の緊張が解けたのである。
 しかし相手が同郷の出身と知って打ち解けるというのもおかしなものだという気がする。同じ日本人、同郷かどうかでそれほど対応が変わるものだろうか。やはりオザワさんは少し変わっている気がする。
 小沢さん以外にも、強面=人見知りの政治家の存在は紛らわしくて困りものだが、これは別に政治家に限ったことではない。こちらの挨拶をあまり返してくれない人は職業上出会う医者にも患者にもいる。そして特に男性にその傾向は強い。マンションのエレベーターで出会っても無視する人なども少なくない。しかし特に私がそれに腹が立たないのは、その人が対人緊張が強いことを私が感じるからである。対人緊張が強いと、相手と目を合わすことすら負担になる。挨拶を交わすことはもっと面倒になる。煩わしいのである。その上に年齢や社会的地位が上がると、特に注意をして挨拶をしたり返したりしなくてはならない人が少なくなっていく。そのまま更に年を重ねると、無理にでも挨拶をして愛想を振りまかなくてはならない人がとうとうゼロになってしまう。ただしそのような人でも一目を置いて気を使う必要があるとすれば、奥方くらいになってしまうのである。
ちなみにオザワさん(仮名)であるが、彼の元妻の書いた手記は、そのナルシシストぶりをよく表している。松田賢弥:小沢一郎 淋しき家族の肖像  文芸春秋、2013年を参考にしよう。この書の冒頭の、小沢の元妻の書いた手記は、本書の一つのウリである。そこで「和子」は書く。
「・・・8年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才を過ぎました。3年付き合った女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引き取れと言われたそうです。それで、私との結婚前から付き合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小澤が言うには、この●●●●と言う人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰でもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手伝ってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。挙句「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。その言葉で、30年間皆様に支えられて頑張って来たという自負心が粉々になり、一度は自殺まで考えました。息子たちに支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも悔しさとむなしさに心が乱れることがあります。」
それから手記では、福島の原発事故の後、県民をおいて自分たちだけが逃げ出すことを考えている小沢氏を情けなく思い、非難する。
「ところが三月三十一日、大震災の後、小沢の行動を見て、岩手、国のためになるどころか害になることがはっきりとわかりました。」 「こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたのかと思うと申し訳なく恥ずかしく思っています。」
いやはや人間もと配偶者にここまで言われると、もう生きる希望も無くなるのではないか。この手記はオザワさん(仮名)の「厚皮」ナルシストぶりをうまく表現していると思うが、これだけの手記を公にされてもし彼が自殺をしたくならないとすれば、それもまた彼が「厚皮」であることの証左だろうか。

シャイ(薄皮)の人が傲慢なナルに見える理由

薄皮のシャイな男性が、なぜ厚皮の傲慢なナルに見えるのであろうか? そこには男性特有の事情がある。長年精神科の臨床をやっていると、男性と女性のコミュニケーション能力の違いを感じさせられることが多い。女性は感情をうまく言葉に表現するのに対し、男性は口下手で黙っていることが多い。ある統計によれば、一生の間に女性は男性の3倍話すというが、とにかく女性は細かな感情を言葉に乗せるのがうまい。それに比べて男性は黙ってしまうのだ。
 その結果として世の中の多くの妻は、夫が口をきかない、いつも黙っているという不満や訴えを持つことがとても多い。そして私がかなり確信を持って言えるのは、たいていの場合男性はシャイであっても到底周囲にはそう映らず、むしろコワモテになりかねないということだ。プチオザワ(仮名)化、と言ってもいいだろう。
 青年期を過ぎた中年、壮年にさしかかった男性を思い浮かべていただきたい。彼らはもともとシャイであっても、もう人前で気おくれがしたり、恥ずかしがったりしているということを公には認めることが出来るような年代ではなくなる。それに顔にはそれなりにしわが刻まれ、頭のほうも白くなったり薄くなったりで、そこに可愛らしさ、幼さといった要素は微塵もなくなってしまう。後は見た目はコワい、というイメージしか残らないのだ。
 しかしそれでも不幸なことに、彼らの習性、つまり人前が苦手、新しい人に会いたくない、笑顔を振りまくのは性に合わない、という事情は変わらない。となるとコワい顔をして対人場面でも挨拶をろくに返さない、ニコリともしない、ということになり、ただでさえコワい顔はますますコワくなる、ということになる。彼らの中にいるはずの弱く恥ずかしがり屋のボクちゃんは、それこそ飲み屋で酒が回ったときくらいしか表に出ず、しかも酔っ払った親父を心からやさしく面倒見てくれる人などいやしない。こうして男性は年をとるにしたがって、ますますコワく、そして近寄りがたくなるのである。
薄皮のナルを支えるのは、自己表現欲求である
薄皮のナルは悩み多き人々である。人前に出るのが苦手だが、そのような性質を持つ自分たち自身にふがいなさを感じている。彼らは自分の存在を認めてほしい。でもそれでいて人が苦手である。このジレンマが彼らの人生を苦痛に満ちたものにする。
 ただ自分を認めてほしい、自分を表現したいという彼らの欲求は、彼らの支えでもある。これもない場合を考えていただきたい。人前に出るのがつらいし、人に分かってほしくもない。そうなると可能な限り一生引きこもりになってしまう可能性もある。「一生引きこもりなど可能なのか?」とあなたは問うかもしれない。しかし現代の日本は、生きていくつもりであれば社会がそれを支えてくれる。精神科の医療にかかれば、そのルートで障害者年金の需給を受けることにもなろうし、少なくとも生活保護を受けつつどこかの施設で衣食住をまかなってもらえる。事実このような形で引きこもり人口は日本で着実に増えつつある。彼らがそのような状態に陥ることを良しとせず、社会の一員として生きていくうえで、彼らが自分の存在を認めてほしい、という欲求は彼らの希望でもあるのだ。
 ただしここに一つの問題が持ち上がっている。それはネット社会が生み出した現代社会における宿痾といってもいい。それはバーチャルな世界で、ある程度は自己表現ができてしまうということである。ある患者さんは引きこもり中にインターネットのゲームにはまり、そこで彼のアバターが人から頼られる存在となったことで満足してしまう。そして「実際の社会では決してかけられないような言葉、たとえば「すてきね」「頼もしいわね」「男らしいね」などの声ををゲームの世界ではかけられるという体験をし、まさにバーチャルな世界での自己実現をする。彼はこれからいったいどのような手段で、実際の社会に出て行き、手に職をつけ、家庭を築いていくモティベーションを獲得していることが考えられるのだろうか?
最近の情報では、高度のネット社会の韓国では、日本の倍近いニートが存在するというが、その理由もわかる気がする。 インターネットを介したバーチャルな世界は、薄皮のナルシストにとっては、格好の自己表現の場でもあるとともに、彼らがおそらくは経なくてはならない現実社会での対人体験を回避する絶好の機会を与えているのである。