2015年8月5日水曜日

自己愛(ナル)な人(54/100)


群生秩序(39100)への追加。
私は群生秩序の話をどうしても日本社会一般の話に拡張したくなる。それは日本の学校や企業に蔓延する隠蔽体質だ。昔ほど問題ではないのかもしれない。しかし最近の東芝問題などは、それをある意味で典型的な形で露呈しているのではないかと考える。
日経新聞電子版(2015/7/20 23:12)によれば、超一流企業である東芝が組織的に利益操作をしていたことが判明し、歴代3社長が辞任へ追い込まれたのが、2015年の720日。前代未聞の不祥事だが、なんと東芝の歴代3社長が現場に圧力をかけるなどして、「経営判断として」不適切な会計処理が行われたということである。利益操作は2008年度から14年度の4~12月期まで計1562億円にのぼるというのだから、ただ事ではない。報告書では、経営トップらが「見かけ上の当期利益のかさ上げ」を狙い、担当者らがその目的に沿う形で不適切会計を継続的に行ってきたという。つまり不正は内部で関係していた人間にとっては明白な事実であったが、それを告発できない。「上司の意向に逆らえない企業風土」があったとされる。
この際具体的にどのような不正が働いたのかはさほど重要ではない。ある集団、この場合は東芝の中で群生秩序が成立し、そこでは全体のノリが最優先されるという事態が起きていたということである。そこでは個人が善悪に従った意見(すなわち普遍秩序に立った見解)を述べても、それはその秩序を乱すことであり、その秩序の中では悪である。そしてそれを告発したり異議を唱えたりする行為はその人が即座に排除するという結果に導く。
そのような組織に君臨し続けた3代の社長はそのような組織でいわばいじめ役としてのナルシシズムの満足を体験していたということになる。ただしここで東芝の中でいじめが起きていたかはわからない。ただし群生秩序においては、そこで不正をすることを迫られているということ自体が、(それに従わない場合の)いじめの脅しに常にさらされていたということであり、それがいじめ体質であることと実質的にには変わらないであろう。

作家のナルシシズム 

別に作家がことごとくナルシシストだと言うつもりはない。しかしナルシシストである作家は多い。これは考えてみれば当たり前の話である。書かれたものは自己表現の欲求の産物である。仕事で仕方なく文筆業を営んでいるという場合は除いて、作家は表現したいというやむにやまれぬ欲求に駆られて文字を書き付ける(ワープロのキーをたたく)人々である。まずざっと書き、それから推敲を加え、文章の手直しをし、ある程度満足が行く出来栄えまで持っていくという作業を毎日行う。そこには十分に表現しえたという喜びが伴うだろう。その彼らが自己愛的な傾向を持たないほうが不思議だろう。
 彼らはおそらく舞台でスポットライトを浴びることは好きではないかもしれない。特に喋りを得意としなかったり、容姿に自信がないのかもしれない。あるいは待ったなしの状況でパフォーマンスを行うことには本来心地よさを感じない可能性もある。しかし書くものを通しては、人に大きなインパクトを与え、世論を率先して構成していく自身もある。自らの本が本屋で平積みになっているのを見るのは誇らしくもあり、自信にもつながる。
作家のナルシシズムを考えるとき私の頭に浮かぶのは、前東京都知事の猪瀬直樹氏である「ミカドの肖像」(1987年)は第18大宅壮一ノンフィクション賞咲くとして有名だが、それ以外にも「天皇の影法師」、「道路の権力」(2003年)なども感心しながら読んだ。しかしとにかく悪評が多い人でもある。傲慢不遜、いつも上から目線、自分が一番正しいというオーラを常に放つ・・・・。ナルシシストの典型と言われても仕方がない。私は彼のことを非常に優秀で、文筆の才があり、同時に野心的な人と見る。特に自分が優れているという自覚に伴う心地よさを感じているようで、それを常に追求しているという点で、きわめて自己愛的な人でもある。
大学の講義をくわえ煙草で行い、それに抗議をした生徒を「これは俺の授業だ。聞きたくなければ出なければいい。」とはねつけたという話。都庁にもくわえ煙草で入ろうとした所、さすがに守衛に止められたという話などの話がよく書かれている。誰の目からも顰蹙を買うような行動に出てしまうのは、彼の自己愛の傾向があからさまで、またそれが自分でも抑制できないほど強かったのであろう。(以上、いちおう参考としては、『週刊現代』2014118日号などの記載による。)
もちろん非常に有能な人であり、それを買われて都の副知事の地位を得、石原慎太郎の後に都知事の地位を禅譲された。しかしそこでも暴走が目立ち、放言が問題視され、結局はその場を奪われる。その暴走はいつから始まったのか?
もともと自己愛的な人であったことは間違いないが、2012年の12月に都知事選に当選したころからが大変だったらしい。(以下産経新聞 Web2013.12.28 「都政における「猪瀬直樹」とは何者だったのか」による。) 
都知事選投開票日の開票開始直後、猪瀬さんはツイッターにこう書き込んだという。「12月16日(日)20時01分、NHKで当確が出ました」。もちろん国内選挙史上最多の433万8936票の圧勝だったから喜んでも不思議はないが、この票数を背景にした「おごり」が顔を出し始めたという。「ギネスに登録してくださいよ」「434万票の民意の重みで(都知事の)椅子も大変だろう」「石原さんの得票も超えた」。都議会各会派や安倍晋三首相へのあいさつ回りで、そんな言葉が口をついたという。安倍首相は「謙虚に言った方がいい」と応じた、と報じられている。
 このようなあまりに子供っぽい反応を見ると、作家のナルシシズムについて再び考えさせられる。作品を書くということは時間がかかることだ。そして結果はすぐにはついてこない。地道な取材、資料集め。それらをクリアーした先に時には栄光が待っている。猪瀬さんはその作家として十分な成功を収めたにもかかわらず、政治の世界、パフォーマンスの世界での熱狂や興奮に魅了されたといえるのかもしれない。副都知事に登用され、石原氏引退の後の選挙の圧勝。これほどまでに自らの自己愛をドラマティックに満たしてくれる舞台はあるだろうか?しかしそのような状況になり、より慎重に身の処し方を考える人もいれば、そうではない人もいる。自己愛者にとっての一時的な人気、成功と賞賛は、彼のその後の人生の歯車を狂わしてしまうほどの魔力をもっているとしか言いようがない。
 同様の文筆業を専門とするナルシシストとしては、百田尚樹氏が思い浮かぶかもしれない。2006に『永遠の0』(太田出版)を発表し、2012オリコンランキング文庫部門で100万部を突破。2013には『海賊とよばれた男』で本屋大賞を受賞。文筆家として超一流でありながら、そこを離れると放言、失言が目立ち、ナルシシストぶりを発揮する。最近の自民党の若手勉強会での発言などは、その典型だろう。百田氏の一連の発言について香山リカは「多数派としてのヒューブリス(傲慢)」が透けて見えることが問題だとし、その「傲慢」は先天的なものではなく権力に近づくことによっていつの間にか身についたものと考察している 百田発言と「ヒューブリス(傲慢)症候群」. 朝日新聞 (15-07-02). 15-07-11閲覧。(最後の3行は岡野がネットからコピペした。)
猪瀬氏にしても百田氏にしても興味深いのは、作家としての腕は抜群であり、その世界に留まっている限りは十二分の成功を収めた人たちであるということだ。しかしそれ以外の場での暴走が目立つ。あたかも分泌が彼らの自己愛をうまく枠組みに収めることが出来ていたが、言動が挑発的で思慮に欠けるという点であろうか。つまり文筆という構造を離れると彼らの自己愛が一気に暴走してしまうという点であろう。