2015年8月4日火曜日

自己愛(ナル)な人(53/100)

もう駄目だね。惰性で書いている。絶対ボツ。

美人のナルがナルでいられる期間は短い。若い盛りをあっという間に通過した美人たちはそれから受難の時期に入る。自信の根拠になっていた顔に様々な変化が生じる。ふと気がつくと小皺や小さなシミが・・・・。マイクロスコープで自分の肌を見慣れている人は(そんな人いないか!)肌の微細なきめそのものが変化しつつあることに気が付く。それまで素のままで美しかった顔に様々な不都合な変化が生じ、化粧による「補正」が必要になってくる。これまでは美しさを引き立て、強調するために用いていたファンデーションが、「現状復帰」のために用いられるようになる。[化粧の意味さえよくぜんぜんわからず、テキトーに書いている。] 
  おそらく20歳代に突入した時点で、美人たちは現在の自分の写真を見ることが苦痛になってくる。確かに化粧栄えはするようになっているかもしれない。幼児時期の皮下脂肪が徐々に消えていく過程で顔の輪郭がよりハッキリして、美人が美人らしくなるのもこの時期かもしれない。しかしそれも20歳代前半までと見たほうがよい。それ以降は確実に劣化の一途となる。ともかくも短かった美人ナルの時期はもうカウントダウンに入ってしまっている。
 20歳代の美人達には、すぐ後ろに10代の美少女という強敵が迫っていることを、そしておそらく自分が彼女たちには決して勝ち目がないことを知っている。10代の頃の屈託なく、「これからいくらでも綺麗になれる」という自信のことをまだ覚えているので、自分が追われる立場になっていることもよくわかる。結局美人のナルは、それに浸る余裕も十分にないままにつらい守りの時期に入っていく。ふと小学生の女子の群れを見ると、彼女たちも実は次の次の世代のライバルであることに気がつく。[そんなこたあないか?]
ところで私にとって「美人」がわからないのは、結局化粧、ということがわかっていないからだ。だって顔に対するちょっとした加工(化粧のことである)で、印象はまったく違ってくるからだ。いったいどちらが彼女の本当の顔だというのだ。私がこのことがわからなくなったのは、仕事を始めてからだから、はるか昔ということになる。来談にこられる方は、時に非常に体調を崩し、ようやくのことで外来に訪れるといった方もおられる。うつのつらい時期など、化粧をしている余裕もなくなってくるだろう。すると普段とはまったく趣の違う感じで、時には誰だか一瞬わからない姿でいらっしゃる。私は不覚にもこう思ったのだ。「ああ、今日の彼女はいつもの、本来の彼女ではないのだ。」 でもこのとき私はすでに誤解を始めている。化粧をしていない彼女たちこそ本来の彼女ではないか?「いつもの目のパッチリとして肌のつるつるしたAさんこそが、本来の、普通のAさんなんだ」という私の認識こそが誤認なわけであるが、それがどんどん普通になっていく。
 そして私にとってもっとわからないのは、美容整形である。ネットなどでタレントの見慣れた顔の横に、高校の卒業アルバムに映った写真が並べられると、ごく自然にデビュー前の高校の頃の写真を「まだタレントBさんになっていない(すなわち本当のBさんじゃない)頃だな」などと勝手に解釈するのだが、これも明らかな誤認なのだ。そしてAさんもBさんも、化粧をした、整形を施した顔が「本当は自分ではない、偽りの自分である」ことを知っているのだ。
 結局美人のナルは、ごく一部の恵まれた人々が限られた期間と状況において置かれる状況である。それは一過性であり、常に、失われることの予期を含んだ状態である。才能や業績や名声といったそれ自体に当分は安住できるような要素を欠いた、いつそれが奪われてしまうかもわからない(というよりも現在のこの瞬間にも刻々と蚕食されている)自分の容姿のみが頼りの、きわめて不安定なナルシシズム。それが美人のナルシシズムの特徴といえるかもしれない。
さて最後に美人の「余生」である。余生などと失礼な言い方をしたが、自己の美に対するナルシシズムがその人を支えている場合には、すでに自分の姿をさらす事が出来なくなった時点からの人生は、それとは明らかに異質のものとなるであろう。
このテーマで思い出されるのが、戦前の大女優原節子である。原は「永遠の処女」とまでうたわれ、その美貌や清楚なイメージが多くのファンの心を掴んだ。しかし42歳での引退後は決して公式の場に姿を見せなくなった。その原も現在では91歳になるという。鎌倉市内の親戚宅でひっそり暮らしているというが、ファンが訪れても頑として会わないという。
もちろん原節子のケースを自己愛と結びつけることは出来ないという見解もあろう。彼女の場合は1953年の映画撮影中に、カメラマンであった実兄が不慮の死を遂げ、それを原自身が目にしたことがトラウマになったという説もある。しかしたとえそうであっても、原が自分の姿を世間にさらさないというポリシーは、おそらく彼女自身の美しさのイメージに対する矜持や、それを決してくずさせまいとする強い意志を象徴していることには変わりないであろう。