自己愛的な国 ― 中国
本書で扱うのは、基本的には「人」である。ナルな人たちには様々な種類がいる、ということをこれまで主張してきた。でも、「これはナルだ!!」と思いたくなる「国」はある。ニュースを読むたびに、「自分たちを何様だと思っているんだ!」と叫びたくなる。大人げない話だが。そして私にとっては、それが中国なのだ。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? 「ナルな国」なんてヘンじゃないか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に腹が立ったものが二つあったから紹介する。
① 発展した隣国を日本は受け入れるか…中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 2015年06月27日)
中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 2015年06月27日)
勘違いもはなはだしいだろう。私たち日本人は、中国が普通にしていれば文句はないのである。中国がいかに大国になろうと、基本的には全然OKである。日本人は強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国なら歓迎である。日本に対して余計な干渉や悪さをしなければ問題はない。しかし尖閣列島の権利を主張し、小笠原に魚船団を送り、それに抗議すると「大国としての中国を素直に受け入れよ」となる。それは違うだろう。
それではもう一つ。
②中国、米を批判…「いわれのない脅威論を誇張」
【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(Yomiuri Online, 2015年07月03日)
とんでもない話である!! 中国の南シナ海での傍若無人な振る舞いがそもそもの発端ではないか。中国が軍事的な野心を露骨に示しながら、米国に「いわれのない中国脅威論を喧伝するな!」というのは全くの筋違いである。
もうまったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。そしてこのような報道を読んで大多数の中国人は「そうだそうだ」 と思っているのだろう。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国民が声をそろえて言っていることと同等と見なすことができるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本書ではその路線で話を進めよう。
もうまったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。そしてこのような報道を読んで大多数の中国人は「そうだそうだ」 と思っているのだろう。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国民が声をそろえて言っていることと同等と見なすことができるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本書ではその路線で話を進めよう。
中国のナルシシズムは「サイコパス型」か?
国を一人の人間と同等にみなすことには、もちろん問題もある。たとえば国の代表どうしが会談や交渉をすることを考えよう。彼らは自国の最大の利益のために、時には演技をし、ブラフを試み、他国との交渉を有利に進めようとするだろう。すると一見傲慢だったり、卑屈だったり、強気だったり弱気だったりする振る舞いや態度も、一種の「お芝居」や「演出」であり、いわばシナリオに従ったものであって、そこにパーソナリティ障害を読み込むのには無理があるだろう、という考えも成り立つ。
ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の「中国人とアメリカ人」(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p.34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か? もちろん例外は沢山いることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。
ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の「中国人とアメリカ人」(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p.34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か? もちろん例外は沢山いることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。