2015年7月18日土曜日

自己愛(ナル)な人(36/100)

モンスター化は普通の人に生じる
ここで再び問うてみたい。モンスターたちは、深刻な自己愛の病理や、未熟なパーソナリティを有した人たちなのだろうか。本書では、私は彼らを、自己愛者と位置付ける。しかしそれは彼が社会の与えらえた状況で、一時期的にそうなる、という意味である。そのことは、モンスターと言われる人たちを観察してみるとわかる。
 モンスターと言われる人々の多くは、少なくとも社会適応が出来ていているのだ。学校側を困惑させる例として本などに描かれるモンスターペアレントたちは、曲がりなりにも家庭を築き、「子供思い」で「熱心な」親で通っている。家族のあいだに重大な亀裂が生じている様子はないのが普通だ。最近では夫婦が歩調を合わせて、あるいは親子が連携してモンスター化するとさえ伝えられているのである。彼らは主婦として、会社員としてそれなりの機能を果たしている以上、彼らを病的なパーソナリティの持ち主と考えることには無理がある。
 私の印象では、モンスター化する人たちは性格的にも特に特徴となる点もない、私たちの中にもたくさん存在するような人々のである。彼らがクライエントとして店や企業と関わったり、子供の通っている学校側と対峙したりする状況で、「魔が差して」しまったかのように無理難題を持ち出す、ということが起きているようである。
 もちろんモンスターの中には人格的に極端な偏りがあったり、精神疾患を抱えていたりする人たちもいる。その場合には彼らが既にかかわっている医療側の介入により、事態は比較的早く解決に向かう傾向にある。問題はそれ以外では適応がよく、それなりに社会でリスペクトを受けているような人々が、ある特定な場面でストップが効かなくなってしまうような状況なのだ。

学生運動の闘士たちは自己愛的だったり「未熟」だったりしたのか?

私がモンスターペアレントの現象を現代人の人格の問題と結びつけることに消極的であることのもうひとつは、学生運動の顛末を見ていたことと関係している。1960年代、70年代に日本で、あるいは世界で学生運動という名の大変なモンスター化現象があった。学生が教授を「お前」呼ばわりし、集団でつるし上げる、デモ行進をして大学に立てこもったり国会を取り巻いたりするという大変な時代があったことを、現在五十歳代やそれより上の世代の方なら鮮明に覚えているはずだ。あれは当時からすれば現代の学生の未熟さや他罰傾向として説明されたであろう。「近頃の若いものはどうなっているんだろう?」という大人からのコメントが一番聞かれたのもこの時期だったのだろう。
 しかし時代は変わり、学生運動はすっかり過去のものになっている。当時未熟だったり甘やかされていたはずの学生たちは、社会では普通に管理職の側に回ったり、すでに引退をして孫を抱いたりしている(ちなみにかの元都知事も学生運動の闘士であったという)。彼らはすっかり普通の市民として社会に溶け込み、その一方では現在の学生たちは学生運動世代以前よりさらにノンポリになっている傾向すらある。彼らは未熟な性格、一種のパーソナリティの異常をきたしていたのだろうか? 否、であろう。今から思えばあの運動は時代の産物だったのだ。

以上「モンスタータイプの自己愛者たち」について考えた。結論から言えばモンスターたちは実は普通の人たちであり、その人たちが「魔が差す」ことを許容するような社会環境が生じてきているというのが私の主張である。ただしモンスター化する人々の一部に何らかの精神医学的な問題が存在する可能性を否定するものではない。事実どのような状況でも決してモンスター化しない人もいれば、簡単にモンスターになってしまう人もいるだろう。この後者の多くは、他人の行動をとりこんでしまう被暗示性の強い人々であると考えるが、パーソナリティ上の問題をより多く抱えている人たちも含まれるようだという点を最後に指摘しておきたい。

参考文献
(1)嶋崎政男 『学校崩壊と理不尽クレーム』 集英社新書、2008
(2)小松秀樹 『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』 朝日新聞社、2006
(3)諸富祥彦 『子どもより親が怖い カウンセラーが聞いた教師の本音』 青春出版社、2002
(4)尾木直樹 『バカ親って言うな! -モンスターペアレントの謎-』 角川Oneテーマ212008
(5)岡野憲一郎 「ボーダーライン反応で仕事を失う」『こころの臨床アラカルト Vol. 25, No1. 特集ボーダーライン(境界性人格障害)』星和書店、2006