2015年7月17日金曜日

自己愛(ナル)な人(35/100)

クレイマー社会の由来

それでは私の考えを述べよう。現在の日本がモンスター型の自己愛者をたくさん生んでしまうのは、社会がそれを許容する様な培地を提供しているからだ。現代の日本では人の意識が依然と少しずつ変わっている。人が自分に与えられた権利を主張するということは、ある意味では当然のことである、という意識が少しずつ浸透している。人は社会でお互いを尊重し合い、不当な扱いを受けたら正当な手段で不満を述べ、場合によっては相手を訴えることは、基本的には正当なことだ。それは欧米社会では、おそらく数十年は先に行われてきたことだ。それが、日本でもここ2030年でようやく行われ始めた。
 しかし問題は、自分の主張を訴える側も、訴えられる側も、お互いにどのように対応していいかわからないということが起きているということだ。ちょうど人々が一斉に柔道の投げ技をまず教わったものの、まだ力の加減を知らず、また受身の仕方もわかっていないかのように、である。組手で投げる側がむしゃらに投げて相手を痛めつけ、今度は攻守交代になると逆のことを相手にするわけである。
 一つの例を挙げよう。クレイマーからの電話はしばしば、延々と続く。カスタマー対応の方はそれをこちらから切ってはいけないというルールをどこからか教えられて、通常の仕事を犠牲にしてまで聞き続ける。ひたすら謝罪のみの対応だから、クレイマーの態度は増々自己愛的になっていき、その対応に当たる人はそれをトラウマとして体験し、一部はうつになり、そしてまた一部は ・・・・・・ 自分自身が別の場所でモンスター化するのだ。
先日は近くのコンビニで、店員の対応が悪いと猛烈な勢いで食って掛かっている客を見かけた。若い店員は平身低頭だったがそれでも埒があかず、困り果てていた。このような時、かつてのアメリカでの生活を思い出した。アメリカでは誰かが声を荒げた時点で、「力の誇示 show of force」となるのが普通だ。つまり警備員や警察が呼ばれるのである。怒鳴ることは「言葉の暴力」であり、人を殴ったり物を壊したりする「身体的な暴力」と同等の反社会的な行為とみなされる。
一般にアメリカでは人前で怒鳴るのは覚悟がいることだ。人はすぐ「力の誇示」に訴えようとする。結果として制服の人々が現れればあっという間におとなしくなるしかない。下手をすると逮捕されてしまうからだ。
 それに比べて日本では怒った市民への対応が非常に甘い。まず別室に招いて宥めようとしたりする。酷い時は派出所で暴れる酔っぱらいを警官がなだめようとしていたりする。
 実は私はそのような平和な日本が好きなのだ。それに一時的に激昂した客や患者も、なだめすかされ、謝罪することで、大部分の人は落ち着くのだろう。しかし一部はクレイマー化、モンスター化するのである。

「お・も・て・な・し」とも関係している
もう少し言えば、このモンスター化の問題、日本人のおもてなしの心ともかなり関係しているのだ。他人をもてなすことが、モンスター化の誘因となる、ということは十分考えられることである。もてなすという善意に基づく行為が、それによりトラウマを受けてしまう原因となるというのは何とも矛盾した現象といえよう。
 日本はもともと、もてなしの文化と考えられ、サービス業の質は極めて高いレベルにあることが知られている。そしてその上に一昨年(2013)の流行語大賞に「お・も・て・な・し」が決まったが、これにはどのような意味があるのだろうか? 現代の日本人の精神性が最近になってさらに高められ、愛他性や博愛の精神が日本人の行動の隅々まで行き届くようになったのだろうか? いや、そう考えるのは全然甘いだろう。
 「おもてなし」は、一種の戦略としてとらえられるべきなのだ。
 飲食業そのほかのサービス業間の競争が進む中で、いかに一人でも多くの顧客を取り込むかという、マーケットリサーチが進み、顧客がより心地よさを感じるような対応を各企業が目指すようになったわけだ。これは市場経済の原則に従った結果である。店員が「おもてなし」の精神を持つことは、ちょうどコンビニ間の競争が激化したおかげでお弁当がよりおいしくなり(あるいは少なくとも口当たりがよくなり)、菓子パンがより食欲をそそるようになるのと同じである。今のコンビニのパン売り場に何種類の、それでも厳選された菓子パンが並んでいることだろう?どれもがあらゆる手で顧客をつかもうとした結果である。つまりは売る側の最大「もてなし」が売り上げとして反映されているようなパンなのだ。私が小さい頃は、パン屋さんに行っても丸いアンパンと楕円形のジャムパンと、グローブ型のクリームパンと渦巻き型のチョコレートパンの4種類しかなかったと記憶している。きっとパン屋さんは「パンとはこんなものだ」という慣習と常識に従い、購買者の顔をあまり思い浮かべずに作っていたのであろう。
 思い出せば、昔は人のサービスは今ほど行き届いてはいなかった。「おもてなし」はあまりなかったのである。JRの前身の、「国鉄」といわれていた時代の改札口で、切符切りバサミをパチパチやっていた駅員さんは、いつも愛想がなく仏頂面だった。タクシーの運転手もまた不機嫌そうで、近距離のタクシーに乗る時は、乗車拒否されるのではないかと運転手の顔色を窺ったものだ。
それでも諸外国よりはましだったのであろう。私は米国に留学している間には、店員に愛想よく扱われるという発想はあまり持たなくなっていた。彼の地での客の扱いはかなり大雑把である。客を待たせて店員同士がおしゃべりをするということはよく見かけるシーンだった。
  私が2004年に帰国して再び暮らすようになった日本は、サービス向上の努力や民営化の影響で、以前よりさらに改善されたという印象を持った。お店の従業員はみな顧客にとても愛想がいいのである。コンビニで100円のアイスを買っただけで手を胸の前に合わせて最敬礼されるなど、1987年に留学する前にはなかったことだ。
 こうなるとお店におけるマナーの良さは横並びという感じで、少しでも不愛想な店員のいる店はそれだけで目立ってしまう。「お客様に失礼があってはならない」ことを至上命令として刷り込まれている店員は、モンスター・カスタマーからとんでもない要求を突きつけられて一瞬絶句しても、まずは「大変申し訳ありませんでした」とまず受けてしまうことだろう。そうすることで、無理難題を受け入れるというベクトルを最初に定めてしまうのである。
 今の時代に「お・も・て・な・し」が改めて流行語になることは興味深いが、これも日本にオリンピックを招致するための戦略から発していたことを忘れてはならない。そしてその時点で私たちは諸外国からの訪問客からの無理難題を聞かざるを得ない立場に自らを追い込んでいるのではないかと、少し心配になる。「お・も・て・な・し」は確実に、カスタマーが増長する一因となっていると思う。

本書をこれまでお読みの方は、この問題は自己愛トラウマとも結びついていることを理解されるかもしれない。「おもてなし」を受けて当然と思っているカスタマーは、もうちょっとやそっとでは満足しない。高いお金を出して飛行機のファーストクラスに乗った時のことを想像していただきたい。搭乗後、何かの都合で飲み物がエコノミークラスの人たちに先に配られているのを知ったとしたら、「こちらは高いお金を出したのに何だよ!」と、ファーストクラスとしてのプライドを痛く傷つけられるに違いない。人より先に飲み物を飲めないので怒る、とはいかにも子供っぽいが、プライドを傷つけられた人間には極めて重大な問題なのである。モンスター化している人はこの、本来受けるべきだと信じているサービスを受けられないいことから来る自己愛的な傷つきに反応している可能性があるのだ。