2015年7月19日日曜日

自己愛(ナル)な人(37/100)

いじめ型ナルシシスト

 いじめという現象にもナルシシズムの満足が関係する。他人をいじめている時は、「自分や強者なんだ」という満足体験が伴う。それに陥っている人を「いじめ型ナルシシスト」と位置づけよう。
クレイマー型の自己愛者について書いた時、彼らが社会の中である状況で、限定的に自己愛者になってしまうという事情について述べた。彼らは普段は職場や家庭で、周囲とも特に問題なくやれているが、あるサービスを受ける側になると、魔が差したように、自分の権利や特権意識を声高に訴えるようになる、というわけだ。いじめ型ナルシシストにも、多少なりとも類似の事情がある。
 いじめの多くは、厚皮型型や、サイコパス型の自己愛を持った人間がリーダーシップを取ることが多い。しかしその周辺の、いじめに加担する人の多くは、実はそれ以外の場面では普通の人々であることが多い。彼らが体験するのは、「自分がやらなければ、今度は自分が狙われるという」という恐怖心と、いじめに伴う若干の快感の両方であろう。
 いじめる者の自己愛の問題を考える場合には、この種の積極的ないじめと、消極的ないじめを分けて考える必要があろう。しかしいじめを行っている瞬間には、いずれの種類にせよ、そこにある種の「俺は強いんだ!」的な高揚感が体験されていることには変わらない。その瞬間には「いじめ型のナルシシスト」になっているのである。
私はいじめの問題は、以前にも述べた「自己愛の階段」とも結びつく議論ではないかと思う。[この部分、後で追加する必要あり。]「上には媚びて、下には傲慢」という自己愛的な社会における行動原則は、良きにつけ悪しにつけ、社会に生きる私たちの多くが、程度の差こそあれ、従っているものである。そこでは「上から下へ」への権力の誇示や支配はむしろ当たり前のように行われる。
 しかしいじめにおいてはこの「上から下へ」とは別の力、すなわち「集団から個へ」という力が働く。クラスの中で、本来は学年差がなく、自己愛の階段の段差がそこに明白な形では存在しないはずなのに、そこにいじめる集団といじめられるという関係は出来上がってしまうのである。ただしそこに「上から下へ」のベクトルが加わると、いじめはさらに深刻になろう。たとえばいじめる集団のリーダーシップを、年上、目上、学年が上の誰かがとっている場合である。
最近耳目を集めた川崎のいじめ殺人を振り返ってみよう。
この事件は20152神奈川県川崎市の河川敷で13歳の中学1年生の少年A殺害され、遺体を遺棄された事件という悲惨な事件である。事件から1週間後に少年3名が殺人容疑で逮捕されたが、このうちの主犯格が18歳で、Aに直接手を下したとされる。この場合、BBに命令される形でくわえられた暴行においては、「上から下へ」と「集団から個へ」の両方の力が働いていたことになる。
このいじめはおそらく集団が存在するところには何らかの形で生じる運命にはあるにしても、しかしそれが1980年代ごろよりわが国でもしばしば問題になっているとしたらそれはなぜだろう?これもモンスター現象と同様の社会的な背景が関係しているのだろうか?
いじめが生じるメカニズム
本書はいじめに関する本ではないが、私自身のこの問題についての立場を簡単に示しておきたい。
 まず最初に、私はいじめ自体は決して異常な現象だとは思わない。それは人間の集団の持つ基本的な性質に由来すると見てよいだろう。私たちはある集団に所属し、そこで考えや感情を共有することで心地よさや安心感を体験する。逆に集団から排除され、孤独に生きることは、不安で恐ろしい体験にもなりうる。これは「社会的な動物」としての人間の宿命と言える。
 そこで問題となるのがその集団の有している凝集性だ。それが高いほど、そのメンバーはその集団に強く結び付けられ、その一員であることを保障される。そこには安心感や、時には高揚感が生まれる。ところがある集団の凝集性が増す過程で、そこから外れる人たちをいじめ、排除するという力もしばしば働くようになる。それを「排除の力学」と呼んでおこう。この「排除の力学」自体は異常な現象ではないが、それがいじめを加速し、犠牲者を自殺にまで追い込むという事態が、この高度に発達した現代社会においても放置されてしまうことが異常であり、病的なのである。
ある集団が凝集性を高める条件は少なくとも二つある、と私は考える。一つはメンバーが明白な形で利害を共有しているということだ。①利害の共有、としよう。集団にとっての共通の利益に貢献するメンバーは、集団に大歓迎される。オリンピックで活躍した選手は無条件でヒーロー扱いされ、空港ではたくさんのファンからの出迎えを受ける。
もう一つは、集団のメンバーが共に敵ないしは仮想敵を持っている場合である。②仮想敵の存在、としよう。集団はある種の信条を共有することが多いが、そこに「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」というネガティブな要素が加わることで、より旗幟鮮明になり、メンバーたちの感情に訴えやすくなる。そしてその仮想敵を非難したり、それに敵意を示したりする人は当然そのグループの凝集性に貢献し、それだけ好意的に受け入れられることになる。