2015年7月12日日曜日

自己愛(ナル)な人(30/100)


恥による傷つきはトラウマである

これらの例が教えてくれること。それは自己愛の傷つきは、一種のトラウマであるということだ。これを「自己愛トラウマ」という。それは人の心を委縮させ、生きる力さえ奪いかねない。ちょうど桂文楽のみに起きたように。タイガー・ウッズの場合にはわからない。噂によれば、彼はイップスに罹っている可能性があるという。とするとこれは重症であるし、回復の見込みは薄い。しかしイップスは一種の病気であり、それに陥ってしまったウッズは、運の悪さを認めこそすれ、恥じることなど何もない。(イップスは一種の精神的な病気だというとらえ方をする人もいるが、そんなことはない。練習のし過ぎか、原因不明の理由により、脳の神経回路に混線が起きてしまい、順序立てた運動が出来なくなっているのである。)
さっさとゴルフに見切りをつけて、解説者や実業家や政治家にでも転身すればいいだろう。彼の頭脳や知名度から見て、相当のアドバンテージを持っていると言えよう。
 しかしもしそうなるにせよ、彼が体験する心の痛みは計り知れない。彼はまだこれまで積み上げたプレイヤーとしての経験や名声が失われることになるとしても、とてもそれを受け入れられないのではないだろうか?
どうして恥の感覚はそれ程私たちの心にダメージとなるのだろうか? それはよくわからない。しかしそれはある意味では、体の傷つきと似たような意味を私たちに持つから、と考えることができる。私たちが例えば電車の中で、近くに立っている女性のハイヒールに踏まれたり、隣の人の傘の先が太ももに刺さったらどうするだろうか? 声を上げたり大げさなジェスチャーで反応してその人を排除したり、そこから身を遠ざけたりするだろう。身体はいわば私達自身であり、それを侵襲されることに対しては、私達は全身で反応するのだ。これは生物にとっての自己保存本能であり、それを行わない方がおかしいと言えるだろう。動物だって皆そうする。顕微鏡の下のアメーバでさえ、針の先でつつくと身をよじるようにしてそこから遠ざかるだろう。
しかし私たちの身体は、そこから遠くに存在し、自分に危害を及ぼす危険性のないものに反応することはない。その意味で身体はある大きさを持ち、皮膚という境界を持つ。皮膚を破って侵入してくるものに対しては、先ず痛みや違和感が生じ、それからそれを回避したり撃退するという反応を起こす。そして相手の身体に対しては、それを犯さないように、侵襲しないように、という配慮を持つ。同様の反応を相手に与えてしまい、撃退されないためなのだ。
 さて心を持っている人間は、自分の心についても一種の自己愛的なスペースないしはバウンダリー(境界)を設ける。これは一種のプライドであり、矜持である。そこに入り込んでくるような言葉、振る舞いには精神的な痛みを感じる。自己愛とは結局この心のスペースと言って言えなくはない。ここを破ってくるような言葉や扱いには敏感に反応する。
例えば自分が学校で最上学年、例えば中学3年だったとする。部活に行くと、そこには下級生の部員がいて、彼らには丁寧な言葉で接してくることを期待する。部室の掃除やゴミ捨てを下級生に命令されること等ありえないだろう。自分が命令する立場だからだ。そこで誰か生意気な下級生の部員、例えば中学一年の新入りの部員がため口でなれなれしく接してきたとしたら、きっとあなたは痛みを感じる。それはちょうど自分の自己愛と言うスペースに傘の先を突き立てられたのと同じ痛みを生むからだ。
先ほどの桂文楽やタイガー・ウッズのことを考えよう。彼らは落語界の巨匠として、ゴルフ界のスーパースターとして、自分たちの存在をとても大きく感じ、周りもそのように扱うことを期待する。エレベーターに乗れば、人は「まあ、こんな有名人と乗り合わせるなんて」と驚くだろうし、街を歩けば噂されたり、サインを求められたりするだろう。それに当たり前になっているはずだ。するとある日突然自分のプライドが散り散りになるようなパフォーマンスをし、それをメディアを通してみなに知られたらどうなるだろうか? それこそ街を歩くのでさえ、コンビニに立ち寄って雑誌を買うのでさえ窮屈になってしまうのである。これほどの傷つきの体験はないであろうし、それを私がトラウマと呼ぶ意味も分かるであろう。
この種の自己愛トラウマは、アスペルガー障害の人々にも同様にみられる。アスペルガー障害とはスキゾイド・パーソナリティのように対人関係で心があまり動かず、したがってあまり感動も傷つきもないだろうと思うのは大変な誤解である。確かに彼らは他人の気持ちを読み取ることが不得手かもしれない。しかし自分の心の痛みは普通に、あるいはそれ以上に感じるのである。