2015年7月8日水曜日

自己愛(ナル)な人(26/100)

「空気が読めない」正体
しかしよく言われるアスペルガー者たちの「空気が読めない」という現象とはいったいなんだろうか?「空気」とは結局弱肉強食のこの世界で生き延びるための一番大切な感覚、つまり自分はどの序列にいて、誰に対して取り入り、誰には高圧的に出ていいかという、基本中の基本の感覚に対する感度が低いということだ。これは集団で生きていくうえで決定的な問題を引き起こすし、その人がグループに入っていけなかったり、みながドン引きするような発言をしたり、最終的に虐めの対象になったりする原因にもなる。
ある新入社員である事務の女性が、他の社員のいる前で、上司に当たる部長に対して「でも部長さんって、一見ツンデレですよね。」と発言し、一瞬周囲が凍りついた。
聞いている同僚たちは、一瞬「あれ、この新入社員、部長とデキているのかな?」「この新入社員は実は社長の御令嬢だったっけ?」と思い、そんな事情などありえないと思いなおして、改めて聞く耳を疑った。部長を「ツンデレ」呼ばわりするだけの関係性も、職場での地位も、まだまったくない彼女がそれを言うことで、彼女はその場でどのように振舞うべきかの感覚をまったく欠いている、つまり「空気を読めない」ことを一瞬でさらけ出したことになる。
この新入社員の例は改めて、空気を読むということが私たち人間社会にとって、おそらく動物社会にとってもいかに必要不可欠で、かつ自然なことかを物語っている。いわゆる群生動物は、その秩序維持のために序列を必要不可欠としている。それを守れない個体はすぐにハブかれ、生き残れない。ということは今生き残っている固体はすべてえり抜きということになる。誰が自分より強いか、自分が集団のどの位置にいるのかのモニタリングはまさに生存の条件といえる。かなり高度の機能といえるが、それを社会で普通に生きて行く私たちは、みな備えているのである。
 アスペルガーの人たちの空気の読めなさを集団での位置づけの不得手さと理解すると、彼らが持つ、自分の(集団内での)姿を外から眺め、感じ取るという能力が欠如しているということが改めてわかる。彼らが独り言をぶつぶつ言ったり、素っ頓狂な声をあげて地下鉄のホームを「ヒヤー」とか言いながら笑いを浮かべて行ったりきたりする時、彼らは外側から自分を見る視点をまったく欠如している。
ある見るからにアスペルガーの思春期少年が、地下鉄のいすに座って、周囲の目をはばかることとなく、おヘソの掃除をし、パンツに手を入れてポリポリ掻いていた。頭はボサボサで、くしを入れた形跡も、おそらく鏡で自分を見たという形跡もない。体にはいろいろな道具や財布をぶら下げ、忘れ物を防止しているようだ。手には文庫本を持ち、それを読みこなすだけの知性は備えていることがわかる。

私たちだって時にはヘソの掃除をし、下着の中をポリポリやることもある。独り言も出るだろう。でもそれは一人で部屋にいるとき、あるいはよっぽど気の置けない家族や友達の前で、である。それらのある意味では普通の行為が、公衆の面前で出来てしまうことがアスペルガーの特徴である。これもまた彼らが自分を外側から見れていない証拠だ。
 私たちは集団の中で何かをしたり言ったりする場合は、その直前にそれをシミュレーションしてモニタリングをする。冗談を言うときは、それを心の中であらかじめ一瞬言ってみて、集団からの受けを推し量る。ある事柄について発言する際は、それを言うことがセンシティブな人がそこに含まれないことを確かめる。たとえばある種のマイノリティーについてコメントする場合、その当事者がいないことをあらかじめ確かめておくなど。「空気を読む」ことの正体とは結局そういうことだ。そしてそれを程度の差こそあれ欠いているのがアスペルガーの人たちということになる。すると結果として彼らが自己愛的に見られるとしたら、その多くは誤解、錯覚ということになるかもしれない。