2015年7月7日火曜日

自己愛(ナル)な人(25/100)

アスペルガーの当事者は、どのようなことを思っているのか?「権田真吾著:ぼくはアスペルガー症候群」(彩図社)」は、機能が高く社会適応を果たしている当事者が内側からアスペルガーの世界を描いているが、とても参考になる。そこにもアスペルガー型自己愛を理解する上でのヒントが多く書かれている。
 著者(Gさん、としよう)は同僚の高機能自閉症と思われる女性社員Iさんについて描く。
Iさんは仕事の腕は確かなのだが、言動に少々問題がある。会社が推奨している目標管理について「気に入らない」といった発言を社内で平気でするのだ。本人に悪気はないらしく、言った後もあっけらかんとしている。ある日、僕がトラブル対応で他部署に行ったときのことだ。そこの部署の女性社員からこんなことを言われた。「Iさんって、おたくの社員?ちょっと気に触る発言があったのだけど・・・」(p77)
こんなエピソードを語りつつ、Gさんは自分の体験に触れる。
「かく言う僕も、暴言を吐いてしまって苦い思いをした経験がる。ある日僕は業務が立て込んでいて不機嫌だった。そこへ、多拠点から業務依頼があり、僕は「まあいいけど、何でそんなこと引き受けなあかんの?」と文句を言ってしまったのだ。すぐに「しまった!」と思ったが、後の祭り。上司に呼び出されてこっぴどく叱られた。たとえ虫の居所が悪かったとしても暴言はいただけない。ビジネスマンなら感情のコントロールを的確に行う必要がある。」(p78)

 IさんもGさんも、これらのエピソードを通して会社で相手に「なんて傲慢で自己チューなナルなんだろう?」と思われている可能性がある。人の評価は恐ろしい。一度出会っただけでも、あるいはそれだからこそ、そこでのひとこと、態度は決定的な印象を与える。
 もちろんこれだけで両者をアルペルガー的なナルシストと決め付けるつもりはない。しかし彼らが時に自己愛的と思われる際のひとつの特徴を表している。それは自分の姿を外側から見る力が、最初から、つまり生まれつき乏しいということだ。それはどういうことか?
 ここでサイコパス型と比べてみよう。彼らには理想的な自己イメージと同一化した際の満足があった。それ自体は自己愛の定義そのものである。そしてそこに同時に虚偽、嘘、自分を大きく見せるための偽りの姿を臆面もなく表にさらし、周囲をだましおおせた。他方のアスペルガー型には、虚偽の要素は少ない。むしろ虚偽のなさ過ぎ、自分のさらけ出しすぎ、なのだ。サイコパスが他人にどう見られるかを徹底的に知り尽くし、それを武器に使うとしたら、アスペルガー型は、他人にどう見られているかを感じ取れないので、「これをここで言ったらマズイ」「ここでこのような振る舞いをしたら、自分はこんな見られ方をしてしまう!」というアラームもなりようがない。自分をチェックできずに思ったとおりのことを言ってしまう。
 もちろん「思ったまま」を表現することそれ自体を一概に否定できない。というよりは本音、本心の部分は、それを抑え付ける事で精神のバランスを失う可能性がある。だからそれを仕事の後の飲み会で気の置けない同僚に愚痴ったり、家族に話したり、あるいは独り言を言ったりして処理をする。しかしアスペルガー方では、その独り言の部分を社内で、それも聴かれてはいけない人の前でポロっと口に出してしまうというところがある。人はそのような行為を「空気が読めない」せいだと表現したりするのだ。