2015年7月2日木曜日

自己愛(ナル)な人(20/100)(2/200に追加する部分

ここでこのサイコパスのナルシシズムの特徴は、強調してもし過ぎることはないし、この点が人をだます上で決定的なのだ。ナルシシストはある意味で、すでに自分をだましている。「自分はすごい」と本気で思っている。そうでないと人をだませないのである。

ということで、ここで自己愛の定義について、補強する必要が出来てきたな。最初はあまり考えていなかったことである。

自己愛(ナル)な人(2/200)に追加する部分

自己愛の本質部分は「イケてる自己イメージ」との同一化だ
ここで少しわかりにくいかもしれないが重要な点を述べておきたい。そもそも自己愛としてどのようなものを私が本書で考えているかということだ。
私は学位もちだが、実はかなりイーカゲンな論文に対していただいたものである。その論文で述べたことは、しかし今でも常に私の頭にある。それは、人の自己イメージには、理想化されたイメージと、駄目イメージがあり、その間をショッチュウ揺れているという考えである。
 わかりやすく、「イケてる自分のイメージ」と「やっぱり俺って駄目じゃんイメージ」と言い換えよう。帰って長くなったな。
 人は育っていく過程で親を見て、漫画を見て、ドラマを見て学校の先生を見て、クラスメートを見て「すごいな、あんなふうになりたいな」と思うことがある。一種のファンタジーを抱くのだ。たとえばクラスに成績が優秀な友達A君がいて、いつも漢字テストで100点を取る。「あんなふうになれたらな」。と思うが、同時に「でも自分はまだだな」という現実感覚もある。
 ところがテストで自分も漢字テストで100点を取り、「すごいな、うらやましいな。」と隣の友達に言われたりする。「あれ、僕ってA君みたいなのかな?自分ってイケてるのかな。」と思うとき、少しの戸惑いとともに喜びを感じるだろう。自己愛とはこの瞬間に体験される。それまで自分とは異なると思っていた姿に、自分が重ねあわされることによる快感。でもおそらく翌日のテストでA君はまた100点なのに、あなたは80点しか取れず、「ああ、やっぱり僕はA君じゃなかったんだ」となる。自分の現実の姿と、「イケてるイメージ」はふたたび乖離するのだ。
もちろん自分は現実に100点を取らなくても、想像力を働かせたら、A君になれるし、そのときは偽りの自己満足を味わう。でも次の瞬間には「でも、これって現実じゃないよね」となり、軽い失望を味わう。どうしてこれが「軽い」かといえば、想像力を働かせてA君になっているとき、「これはホントーじゃない」という認識が脳のどこかに存在するからだ。これを現実検討能力という。そうなると偽りの自己満足はそのピークに達することはない。
 ところで人間はこの種の偽りの満足と失望を、それこそ毎日のように体験している。夏の暑い日に汗水流して働く。ふと「仕事が終わったらビールだ・・・・」と一瞬うっとりする。でも「後仕事終了まで3時間だ。がんばらなきゃ」となる。その時ビールをゴクゴク飲む自分を想像しても、それは本当の快感ではない。でもほんのちょっとは快感なのだ。それが、「今目の前にビールはない」という現実検討に取って代わられる。しかしほんのちょっとの快感の先取りをしているので、それを実際に体験しようと、仕事に励む。人の脳はそのように出来ているのだ。
私は脳科学オタクなので、一歩間違うとシチ面倒くさい話になってしまうから抑えておく。結局何が言いたいのか?
自己愛(ナル)の本質部分、というか共通部分は、「イケてる自己イメージ」をどれだけ膨らませているか、それと自分を一瞬重ね合わせたときに、どれほど快感を得るか、ということになる。本気でイチローのような大リーグのスターになることを考えている野球少年は、それをイメージしたときにどれほど嬉しいか、ということでその人の自己愛のレベルが決まる。ここで注意してほしいのは以下の点だ。
どれほどイケてる自己イメージをリアルに体験できるかが、自己愛度を左右する。これはいわば自分をどこまでだませるか、ということにもなる。体力も貧弱で才能のかけらもなくても「俺は将来大リーガーだ!」という少年は、周囲からもトンでもないナルに見えるだろう。それは本気でそのようなファンタジーを描いているという点においてである。でも彼が「俺は町の草野球チームの8番バッターになったる!」と言っても、彼のことをナルとは思わないのだ。それはあまりに現実的で当たり前な「イケてるイメージ」だからである。
 逆に大谷ショウヘイ青年のように、実力、体格、スター性から言って大リーグのスターにいいつでもなれそうな人が、「俺は将来大リーガーだ!」と言っても、誰も彼のことをナルシシストとは思わないだろう。彼が「宇宙一のバッターになる」と言い出したら、話は別だが。
ここに重要な要素は二つある。
1.  イケてる自己イメージがどれほど高いところに位置しているか?
2.  どこまでその自己イメージに同一化して、陶酔する(自分をダマす)ことが出来るのか?
この二つにより自己愛度が決まってくるのであり、ここが自己愛の共通部分、中核部分なのだ。あとはこの条件を満たす様々なタイプが出来てくる。それが私が本書で述べるものである。人をどの程度利用するのか、どこまでそこに反社会性が加わるのか、どの程度「イケてるイメージ」の反対極にある「駄目ジャンイメージ」に苛まれているか、どの程度自分をだましてイケてるイメージに陶酔できるのか、などなどである。そうすると気が弱い、人に迷惑をかけることばかり心配しているナルだっていることになる。この12のどちらか、または両方が満たされているならば。自己愛についてまじめに議論するためには、それらの「隠れナル」も掬い取ってあげなくてはならないのだ。

うーん。やはりわかりにくくなったか。この項全部ボツか。この50分はなんだったんだろう?